長い間、ご覧いただきありがとうございました

10年余り、この、『道草しながら』というタイトルでコラムを書き続けてきました。

 

しかし、今、色々なところで、コラムを書くようになり、週7本の原稿を書いています。

残念ながら、少し内容が薄くなってしまっているような気がします。

 

先週申し上げましたように、4月から、ユーチューバーにもなります。

 

そこで、少しコラムも整理したいと考えています。

4月から桜井義維英のコラムを読んでいただく先をお知らせします。
 

『雑記帳』

国際自然大学校の機関誌に掲載していたものをデジタルで、書き続けています。

今まで月1回だったものを、月2回書きます。

基本1日と、16日の更新です。
http://yoshiiesakurai.blogspot.com/

 

コラム『カシオペイア』

YouTubeのライブ配信に伴い、それに付随したコラムを新たに執筆します。

「道草しながら」は、こちらに併合とお考えいただいてよろしいかと存じます。
申し訳ありませんが、こちらは少しお金を頂戴しての有料購読となります。
https://note.com/momosroom/m/m55afbeba3cbb

このコラムは、月4回書きます。7日、14日、21日、28日の更新予定です。

ただし、このうち1回は、桜井が育てている若者が書きます。お楽しみに。
 

そして、いよいよ、YouTubeのことですが、

『モモの部屋』という、集まりを主宰します。

この『モモの部屋』は、ライブ配信だけでなく、コラム『カシオペイア』、講演会『円形劇場』、未定稿小説『奥山村物語』の4本の柱から成り立っています。

 

ライブ配信はそのタイトルを、

ライブ配信『52週の冒険』

これは、毎週月曜日の20時から30分程度ライブ配信で、自然体験活動と、そこの人材の養成について、桜井が語ります。

毎週1回は、私自身にとっても、相当なチャレンジであります。

結構緊張しています。

 

コラム『カシオペイア』は先に申しあげたとおりです。

講演会『円形劇場』は、いくら、デジタルを駆使しても、フェイスツーフェイスは大切と思っています。

そこで、自然体験活動の周辺の企業の方や人材で、かつ、若い方にお話をいただこうと思っています。

月1回程度で開催しようと思っています。

どんな人が来るかは、逐一お知らせしていきます。

 

最後の柱が、未定稿小説『奥山村物語』です。

これは、もう3年目に入る小説です。

自然学校が出来上がっていく物語です。

 

是非、この4つの柱からなるつどいに、あなたもご参加いただければと存じます。

https://peraichi.com/landing_pages/view/momo409

このサイトに、概要があります、そしてお申し込みお問い合わせもできますので、一度是非覗いてみてください。

 

改めまして、

長い間、『道草しながら』をご購読いただきまして、ありがとうございました。

そして、新しいコラム『カシオペイア』も、よろしくお願い申し上げます。

 

 

4月から、ユーチューバーです

自然体験活動…キャンプなど…は、いつも大切な活動であることは、今でも変わりありません。

なぜなら、人が生きていく上で、大切な身体の動きや、人との付き合い方を身につけるには、とても有効な場所だからです。

そして最も重要なのは、今の日本で、命の大切さや、生き死にのことを考えるチャンスがあるのは、身近な人の死と、誕生ぐらいしかないのではないでしょうか。

その、死や誕生も病院の中で行われ、立ち会うことが許されなければ、どんどん遠のいていくことになります。

 

そんな大切な自然体験活動をいかに存続させ、振興させていくかを考えるとき、私たちは、今の日本の社会の状況をきちんととらえなくてはいけないと思います。

私が、自然体験活動を仕事にしてから、早40年をこえようとしています。

その間、世の中は、とても大きく変わっています。

その大きく変わった世の中で、もちろん子どもたちも大きく変わっています。

 

さて、そんな中で、私たちが勧める自然体験はいったいどうすればいいのでしょうか。

変わらなくてもいいことも多くあると思いますが、変わらなくてはいけないこともまた、あると思います。

 

そんな中で、私は新しい挑戦をしようと思っています。

自然体験の中で、何が変わらなくてはいけないのか、何が変わってはいけないのかを、確かめるために、少し変わったことをしてみようと思うのです。

 

それは、人を育てるために、今までは、面と向かって話をしたり、実際に自然の中に連れて行って活動をしたりしていました。

 

もちろんそういうことは大切だと思います。

いいえ、変わってはいけないことだと思います。

しかし、面と向かって話を聞いてくれる人や、一緒に自然の中に分け入ってくれる人が減ってしまっているとしたならば、そこは、考えなくてはいけないことではないでしょうか。

変わらなくてはいけないところがあると思います。

 

そのために、インターネットを使ったライブ配信で、色々な人に語り掛けていく活動を始めます。

それに伴って、このコラムも少し、変化させていこうと考えています。

詳しくは次号で…

 

さて、ライブ配信ですが、毎週一回1年間で、52回行います。

これは、指導者や、社会で有用な人材となる人たちに向けてです。

その中で変わってはいけないことなどを語りかけていけたらと思います。

私にとっても、とてもチャレンジングなことです。

ぜひ、みなさんも視聴していただけますよう、お願い申し上げます。

 

同時に、これから指導者になろうと思うような、社会に出ていこう、社会に出たばかりの、これから社会に有用な人材になろうという人たちのための活動の研究もしていきたいと考えています。

これは少し時間がかかるかもしれません。いつか、発表できたらいいなと思います。

 

まずは、4月からのライブ配信をご期待ください。

今はやりの言葉で言えば、『ユーチューバー』ですかね。

 

これらの詳細も次回、お知らせしたいと思います。

本を破いてもOKの本屋さん?

私の川崎の家の、駅前にあった本屋さんが閉店しました。

本屋さんは、万引きに悩んでいるという話を聞いたこともあります。

本というのは1冊盗まれると大体5冊から10冊弱売らないと元は取れないそうです。

 

そんな折、この新聞記事のタイトルに少なからず、ドキッとしました。

絵本屋さん…本屋さんの本を赤ちゃんが破いてもいい?…それはないだろう!

1冊破られて、商品にならなくなったら…10冊売らないといけないのでしょう?

 

しかしよく読めば、本屋さんというより、本が置いてある幼児の有料遊戯スペースでした。

入場をとるのですから、そこに置いたある本は、遊具と同じですね。そして、ちょっとうがったものの見方をすれば、本屋と称しておけば、幼児が破った本は、親が恐縮して買ってくれるのではないでしょうか?

うまいこと考えたものだと、感心しました。ちょっと、下衆の勘繰りでしょうか?

 

私が小さい頃は、棒を持つと、パシッと草を切ったりする遊びをした記憶があります。

大人には植物が可哀想だからやめなさいと言いますが、大人は、このような子どもはまたするのだろうな…ということもわかっています。

しかし、家で本を破れば、厳しくたしなめられるでしょう。本当に2度としてはいけないという叱り方をするでしょう。

なぜなら、本を破ってもいいという子どもが育っては困るからです。

 

何が言いたいかというと…確かに子どもはやんちゃなものです。

そのやんちゃさを、どこで発揮させてあげるのがいいのでしょうか?

それは本屋ではないのです。本屋ではいい子でなくてはいけないのです。

いい子でいられるようになった子どもでないと、行ってはいけない所なのです。

 

そして、やんちゃをしていいのは、野山なのです。

駆け回り、膝小僧をすりむき、草をむしって、昆虫を捕まえて、時には殺してしまう。

そんな経験をしても許される環境が、野山なのです。

野山でするべきことを、本屋ではさせないほうがいいのではないでしょうか?

逆に言えば、やんちゃは野山でさせましょう。

楽をするのではなく苦労を恐れない

時短…楽をするのはどこまで楽するの

 

『子どもたちに苦労はさせたくない』から『子どもたちには楽をさせたい』に、いつからすり替わったのでしょう?

ここで言う苦労というのは、どういう苦労でしょう。

それは戦中戦後の苦労です。

すなわち、戦火に逃げまどい、自分の家族を戦場に送り出し、その心とは裏腹に、戦死を尊ぶふりをしなくてはいけない苦しさ。

そして、戦後の焼け野原で、食べるものもなく、生死の境をさまよう苦労です。

しかし、人が成長するのには、「苦労は買ってでもしろ」と言われるように、ある程度の苦労を若いうちにした方がいいはずです。

それがいつの頃からか、苦労はしないで、楽をして生きたいというようにすり替わるのです。

 

そして、それがより進んで、『子どもたちに楽をさせたい』ということから、『私は、私たちは、もっと楽をしたい』にいつからすり変わったのでしょうか?

結果、いつの頃からか、子どもには苦労はさせないほうがいいという発想になってしまったのではないでしょうか。

 

子どもを育てるのは「主に学校」という状況が生まれてくると、学校では苦労させたくないということになります。

学校での苦労と言うと、それは成績が悪く、きっと将来苦労するというイメージによるものでしょう。確かに成績は良いに越したことはありません。

それは将来苦労するからではなく、ちゃんと学ぶべきものが学び取れたということが確かめられるからです。

 

では、どこで苦労をするといいのでしょうか?

子どもの時に、地域社会の中で行われる教育活動では、大いに苦労ができるでしょう。

その苦労は、人生の糧になり、人格の厚みになっていきます。

その苦労とはどのようなものがあるでしょうか?

 

国際自然大学校では、オーバーナイトで何キロも歩く苦労を体験してもらいます。

山の中で一人で過ごす時間…食べ物も食べず、夜の寒さに震える活動もあります。

そんな活動が、現代の苦労の体験になるかどうか、真剣にもう少し考えないといけませんね。

時短しないで、楽をしない活動を真剣に考えたいと思います。

 

例えば、戦後の苦労を体験活動で再現するとしたら…

やはり食べ物がないということでしょう。

着るものもなく寒さに震えるということでしょうか。

 

もうひとつ、現代にも苦労があります。

それは災害でしょう。

災害の苦労はどのようなものがあるでしょうか。

列車やバスが止まり、自宅まで何十キロも歩いて帰らなくてはいけない苦労でしょうか。

体育館などで、多くの人と暮らさなくてはいけない、プライバシーのない苦労でしょうか。

 

もちろん戦後のそれも、災害のそれも、もっともっとつらい苦労があることは充分に理解しています。

しかし、その色々な苦労の中で、体験活動として、再現し学びに変えられることを考えてみたいと思うのです。

そして皆さんには、子どもにもそんな苦労が必要だということを考えてほしいと思うのです。

楽して生きていきたいと思うのではなく、少々の苦労は怖くないと思って生きて行ける人間を育てたいと思っています。

目線を合わせて欲しい

東京にいる時、リックサックを網棚に乗せると、そのすぐ脇にメガネが置いてありました。正確には網棚の上に落ちていたのです。

ヒヤッとしました。

間違って、この眼鏡の上にリックサックを乗せていたら、眼鏡が割れて、座っている人に降り注ぐところでした。

さてこの眼鏡、どうしたものか…。駅で降りたときに、駅員さんに持って行きました。

「この眼鏡、網棚の上に落ちていたんです、車両は9号車でした。」

「はい」

と受け取ると、そのまま駅務室の奥に持っていってしまいました。

「ありがとう」もなかったですし、目線すら合わせてもらえませんでした。

え〜!そうなの…?と、ちょっと悲しかったです。いえいえ褒めてもらおうとは思っていませんが、「ありがとう」ぐらい言ってくれてもいんじゃないの。そうでないと、また何か拾ったときに届けようと思わなくなっちゃうよな〜。なんて思ってしまいました。

 

また、他の日です。

近くの駅まで歩いて行くときです。

道で、向こうから、お母さんが自転車でやってきました。

途中に電信柱があり、歩道が細くなっています。私は、気を利かせて、立ち止まり、自転車が先に通れるように少し端に寄ってあげました。

自転車が、電信柱の横を通り抜けてきます。

ちょっと頭でも下げてくれるかな〜って思いながら、お母さんの視線を求めたのですが…まるで、私がここにいないような雰囲気で通り抜けていくではありませんか。

思わず、後ろ姿を目で追ってしまいました。

どう見ても、私が道を譲ったのはわかったでしょう?

何か…あるでしょう?

何もないの?

 

また他の日でも、同じように、お兄さんの自転車に道を譲った時も同じような状況でした。

どう見ても、私が道を譲ったのわかったでしょう?

何もないの?

 

マンションのエレベーターです。

エントランスホールで待っていると、小学生が来ました。

エレベーターが来て、ドアが開きました。
小学生に「どうぞ」と言ったら、やはり視線を合わせず、まるで私がいないような雰囲気で先に乗り込んでいきます。

その後は、私を拒むかのようにドアに向かって黙っています。そして、降りる階のドアが開くと、脱兎の如く走っていってしまいました。

私、そんなに怖いのかな〜。

学校では、乗り込むときに先を譲ってもらっても、ありがとうと言ったり、目線すら合わさないようにって指導されているのかな?

 

日本人は目礼を忘れてしまったのでしょうか?

目線を合わせて、微笑んで、ちょっと小首を傾げる。

そんな挨拶が世の中を柔らかく、あたたかくしてくれるのではないでしょうか?

「ありがとう」と、言葉にして言わないまでも、ちょっと視線を合わせての目礼は、日本の良い習慣なのではないでしょうか?