子どもの心が赴くままに

今回のお話は国際自然大学校の機関誌『OUTFITTER』雑記帳2018年8月号に掲載した雑記帳の再掲載です。

ただし、2019年3月20日に加筆修正しました。( )内は加筆です。

 

先日、ちょっとした用事で、江ノ島の海岸に行ってきました。

何年ぶり? いいや、十何年ぶりかもしれません。

夏の江の島海岸…特に今年(2018年)の夏は、いや〜暑かったです。

海岸でお仕事をされている方のお話だと、今年は暑すぎて人出が少ないということです。なるほど、そうなんだ。とはいっても、私の目から見れば、結構な人出でした。

そして、その中でもやっぱり子どもは元気だな〜と感じました。

走り回り、砂まみれになり、寄せては返す波を飛び越え、戯れ、お父さんお母さんがうっとうしくなるくらいジャレついています。

そんな子どもたちを、おもわずほほえましく見てしまうのでした。

何も考えることなく、ただただ、心の赴くままに遊びまわる子ども。

きっと、ああやって駆け回っているだけで幸せなんだろうな。

 

と、思いつつ川崎のマンションに帰ってきて、我が家の9階のベランダから下の公園を見ると、人っ子ひとりいません。

そりゃそうですね。こう暑いと、子どもを外で遊ばせるのも躊躇します。

しかし、部屋の中ばかりにいて、室内でばかり遊んでいて、子どもは健全に育つのでしょうか?

そう思うと、そこそこ暑いけれど、水辺だとか、高原だとかで、遊ぶことが大切になるのかなと思います。

夏休みは、子ども達がこぞって、猛暑疎開などと言われ、海浜や高原に預けられる時代が来るのかもしれません。

そんな時、受け入れるのはいったいどんなところなのでしょう。

そしてそこでは、どんなことをして過ごすのでしょうか?

私たちは、そんな将来を真剣に考えておかないといけないのかもしれません。

今のキャンプが今のままでいいのか社会の仕組みはずいぶん変わってきて、気候も変わってきている中で、ずっと続いているから正しいとは言えなくなってくるのかもしれません。

 

 

電子音

 

以前、病院のエスカレーターのお話をしましたが、今回は、音のお話です。

 

父の通う病院が、新装開店しました。

病院は新装開店とは言いませんね。

すぐ近くに、新しい建物が立って、そちらがオープンしたのです。と、言っても、もう、随分経つのですが・・・

さて、この病院、さすが新築だけあって、なんでもかんでも最新式です。

 

玄関には、ペッパー君がいます。

ご存知のように、このペッパー君は人が近づくと、話しかけてきます。

始めは誰かが話しかけてきたのかと思ってびっくりしましたが、すぐに、ああ、このペッパー君だと気づきました。

 

しかし、ホッとして待合椅子に腰かけていると、近くで、ピピピと、音がします。

結構大きな音です。

何かと思ったら、あなたの番が来ましたよという、呼び出しの音だったのです。

診察を待つ患者さんが、全員この呼び出しの機械を持っているのです。

あちらでピピピ、こちらでピピピと音がします。

そのたびに、患者さんが、あれ?自分のかしら?と機械をのぞき込みます。

自分の機械が鳴った人は、慌ててその音を消して、あわただしく立って、診察室に行ったり、会計に行ったりするのです。

 

家に帰ってきて、ホッとして、テレビをつけ、お茶でも飲もうとお湯を沸かしていると

どこからともなく、ピピピと、また、あの音がします。

何故家でも?と思って慌てました。ポットのお湯が沸いたというお知らせ音でした。

 

苦笑いをしながらお茶を入れていると、今度はトゥルルルと電話が鳴ります。

八ヶ岳の我が家には固定電話はありません。なのにどうして、電話の音が…と、思うと、テレビの中で電話が鳴っているのでした。

 

もう、笑うしかありません。

 

しかしよく考えると、我が家でも、街中でも、こんな電子音があふれていますね。

響く音というよりは、耳につく音と言ったらいいのでしょうか?

気になる音です。

きっと、この電子音というのは、あまり心地よい音ではなくて、耳障りになる音なのでしょうね。小さい音でも耳に触ります。

 

こんな風に、音があふれる中で、思ったことがあるのです。

これは、私の誇大妄想かもしれませんが、この電子音にさらされている人は、苛立つことが多いのかもしれないな…と思うのです。

そのイライラが、他の人に向けられることが多くなっているのではないでしょうか?

 

そんなことはないと思いたいのですが、この電子音、決して心地よい音ではないですものね。

せめて病院では、もう少し自然な音というか、心地よい音が流れるといいのにな〜と思いました。

 

 

 

 

 


ネット依存症

今回のお話は国際自然大学校の機関誌『OUTFITTER』雑記帳2018年6月号に掲載した雑記帳の再掲載です。

ただし、2019年3月3日に加筆修正しました。

 

55日の朝日新聞朝刊に「ネット依存は病気だ」という記事が出ていました。

病気?

本当に病気なの?

確かに「ギャンブル依存」とかがありますから、そうなのかもしれません。

昨年末に成立した『統合型リゾート(IR)整備推進法』においても、まだまだ、そのキャンブル依存症に対する懸念から反対が根強くあります。

競馬や競輪、ボートレース、オートレースの公営ギャンブル等、20歳未満は賭けること(馬券を買ったりすること)はできません。

成人年齢が18歳に引き下げられる中でも、ギャンブル依存症への懸念から、まだこの規制はそのままです。

もしゲーム依存症が病気で、社会に悪影響を及ぼすような状況ならば、国は何らかの法的規制を考える必要があるのではないでしょうか。

公営事業ではないというならば、パチンコはいかがでしょうか?

18歳未満は禁止。確か学生も禁止でしたよね。

スマホや、テレビゲーム機の購入年齢を決め、実際にプレイするそのたびごとに、何らかの年齢認証を入れるシステムを組んではいかがでしょうか。

スマホは子どもの安全面から持たせたいということならば、年齢認証によって、ゲームができないようにすることでよいでしょう。

煙草も、色々紆余曲折がありました。自動販売機での年齢認証が進みました。

ですから、できないことではないと思います。

しかし他方で、家庭の中での問題なのではないだろうかということも、頭をかすめます。

しかし、たばこだって、パチンコだって、未成年者、子どもがそれに溺れないようにするのは、家庭の問題だろうと言えば、そうですよね。

しかし、それでは済まないほど、社会に蔓延し、その悪環境から子どもを守るために、新たな法律を作ったとするなら、今、その悪環境がひとつ増えたと考えるべきなのではないでしょうか。

今、再び、家庭の教育力ではいかんともしがたい、新しい誘惑を社会が作り出してしまったということなのでしょう。

 

 

『身振り手振りのコミュニケーション』

私は時々、路線バスに乗ります。

皆さんはいかがですか?

以前この路線バスの運転手さんは、すれ違う同じバス会社の運転手さんに手を挙げて、あいさつをしていました。時々、何か手でサインのようなことをしている運転手さんもいました。

あのサインはどういう意味なんだとろうと、真剣に考えたものでした。

 

しかし、先日気が付いたのですが、バスの運転手さん、手を上げてあいさつしなくなっていました。

いつからだったのでしょう。そして、なぜなのでしょう?

手を上げると危ないから…といった理由でしょうか?

何か、利用者から、そういった苦情が来たのでしょうか。

しかし、こんなコミュニケーションは大切だと思うのです。

相手に目をやり、相手のことを思う。そんな行動で、しゃきっとすることもあるのではないでしょうか。相手が「変だぞ!?」と気づくこともあると思うのです。

 

横断歩道で歩行者が待っていたら、車は止まらないと交通違反だということを知っていますか?

そんなわけで、横断歩道で車を止めて、歩行者の人を渡らせてあげる時、その歩行者は、まるで私が止まったことなど、なかったように前を向いたまま、渡っていきます。(ちょっと、見た方がいいよ。あなたのために止まったのではなくて、発車してあなたに突っ込むかもしれないよ。)…まぁそんなことはありませんが、そんな意地悪を思ってしまうほど、見事に無視されてしまいます。

なぜ、目を合わせようとしないのでしょう。

 

狭い道で車に道を譲れば、手を挙げて、ちょっと頭を下げます。

 

こんな、無言のコミュニケーションができないから、『イラッ』とするのではないでしょうか?

 

あおり運転とかは、そんなコミュニケーションができない人間の起こす事件のような気がしてなりません。

 

人は、車に乗り、ハンドルを握ると、本性が出るとよく言います。

本性が出るのではなくて、自分の力を勘違いしてしまうのではないでしょうか。

ガンダムのモビルスーツのようなものなのではないでしょうか。

と、言ってもガンダムを私はよく知らないのですが、機械に乗り込み、まるで自分の手足のように大きなロボットを操り、敵を倒していくわけですね。

そんな機械に乗り込んで、自分の意にそぐわないものを倒していく。それが、現代社会の自動車のように感じてなりません。

 

ぜひ、運転をしながら、ちょっと頭を下げたり、手を上げたりするコミュニケーションをしたいものです。

そしてまた、止まってくれた車には、ちょっと頭を下げるといったコミュニケーションもしたいものです。

『子どもの時間、年寄りの時間』

今回のお話は国際自然大学校の機関誌『OUTFITTER』雑記帳2018年5月号に掲載した雑記帳の再掲載です。

ただし、2019年2月13日に加筆修正しました。(  )内は加筆部分。

 

 

日本人の平均寿命は長いですね。本当に長生きです。世界でもトップクラスです。

逆に世界の最下位クラスの平均寿命は50歳ほどです。日本は楽に80歳を越えていますから、30年も余分に生きることになります。

しかし、平均寿命が延びたといっても、延びたのは、年寄りの期間ですね。子どもの時代が延びるようなことはありません。

それどころか、日本の子どもは、成長が速まり、大人の身体になるのが早まっています。すなわち子どもの期間は短くなっているのです。

それにあわせるように、日本社会は成人年齢を18歳に引き下げようとしています。(20224月から実際に引き下げられます)

しかしそれと相反するように、学生でいる時間は延びようとしています。高校の授業料無償化が進めば、ほぼ全員が高校へすすむでしょう。そして大学への進学率は50%を越えています。

子どもが減り、大学は何とか定員を充足しようと、あの手この手を考えます。これからも、大学の進学率は上がり続けるでしょう。

すなわち、社会人になる時間は遅くなるというわけです。極端に言えば、子どもでいる時間が長くなるという事です。

でも、社会は18歳を大人とします。

この相反した現象は一体どういうことなのでしょうか?

 

そして、年寄りになっても働き続けないといけないのです。

働き方改革というのはこのように長く働く時代の働き方を考えるということなのではないでしょうか?

もしかすると、働き方というよりも、生き方改革なのかもしれませんね。

 

18歳で大人になるなら、それまでに大人としての心も育てないといけません。

子どもたちが子どものままでいたい、学生でいたいと思うような育て方をするなら、成人年齢は下げないほうがいいでしょう。

 

老いた時、どのように生きるか、どのように死ぬかも選べないといけないのではないでしょうか。

長くなった人生を、いかに生きるかをちゃんと考えて社会を再度組み立てないといけない時代に入っていると思います。