楽をするのではなく苦労を恐れない

時短…楽をするのはどこまで楽するの

 

『子どもたちに苦労はさせたくない』から『子どもたちには楽をさせたい』に、いつからすり替わったのでしょう?

ここで言う苦労というのは、どういう苦労でしょう。

それは戦中戦後の苦労です。

すなわち、戦火に逃げまどい、自分の家族を戦場に送り出し、その心とは裏腹に、戦死を尊ぶふりをしなくてはいけない苦しさ。

そして、戦後の焼け野原で、食べるものもなく、生死の境をさまよう苦労です。

しかし、人が成長するのには、「苦労は買ってでもしろ」と言われるように、ある程度の苦労を若いうちにした方がいいはずです。

それがいつの頃からか、苦労はしないで、楽をして生きたいというようにすり替わるのです。

 

そして、それがより進んで、『子どもたちに楽をさせたい』ということから、『私は、私たちは、もっと楽をしたい』にいつからすり変わったのでしょうか?

結果、いつの頃からか、子どもには苦労はさせないほうがいいという発想になってしまったのではないでしょうか。

 

子どもを育てるのは「主に学校」という状況が生まれてくると、学校では苦労させたくないということになります。

学校での苦労と言うと、それは成績が悪く、きっと将来苦労するというイメージによるものでしょう。確かに成績は良いに越したことはありません。

それは将来苦労するからではなく、ちゃんと学ぶべきものが学び取れたということが確かめられるからです。

 

では、どこで苦労をするといいのでしょうか?

子どもの時に、地域社会の中で行われる教育活動では、大いに苦労ができるでしょう。

その苦労は、人生の糧になり、人格の厚みになっていきます。

その苦労とはどのようなものがあるでしょうか?

 

国際自然大学校では、オーバーナイトで何キロも歩く苦労を体験してもらいます。

山の中で一人で過ごす時間…食べ物も食べず、夜の寒さに震える活動もあります。

そんな活動が、現代の苦労の体験になるかどうか、真剣にもう少し考えないといけませんね。

時短しないで、楽をしない活動を真剣に考えたいと思います。

 

例えば、戦後の苦労を体験活動で再現するとしたら…

やはり食べ物がないということでしょう。

着るものもなく寒さに震えるということでしょうか。

 

もうひとつ、現代にも苦労があります。

それは災害でしょう。

災害の苦労はどのようなものがあるでしょうか。

列車やバスが止まり、自宅まで何十キロも歩いて帰らなくてはいけない苦労でしょうか。

体育館などで、多くの人と暮らさなくてはいけない、プライバシーのない苦労でしょうか。

 

もちろん戦後のそれも、災害のそれも、もっともっとつらい苦労があることは充分に理解しています。

しかし、その色々な苦労の中で、体験活動として、再現し学びに変えられることを考えてみたいと思うのです。

そして皆さんには、子どもにもそんな苦労が必要だということを考えてほしいと思うのです。

楽して生きていきたいと思うのではなく、少々の苦労は怖くないと思って生きて行ける人間を育てたいと思っています。

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