しかし、今、色々なところで、コラムを書くようになり、週7本の原稿を書いています。
残念ながら、少し内容が薄くなってしまっているような気がします。
先週申し上げましたように、4月から、ユーチューバーにもなります。
そこで、少しコラムも整理したいと考えています。
4月から桜井義維英のコラムを読んでいただく先をお知らせします。
『雑記帳』
国際自然大学校の機関誌に掲載していたものをデジタルで、書き続けています。
今まで月1回だったものを、月2回書きます。
基本1日と、16日の更新です。
http://yoshiiesakurai.blogspot.com/
コラム『カシオペイア』
YouTubeのライブ配信に伴い、それに付随したコラムを新たに執筆します。
「道草しながら」は、こちらに併合とお考えいただいてよろしいかと存じます。
申し訳ありませんが、こちらは少しお金を頂戴しての有料購読となります。
https://note.com/momosroom/m/m55afbeba3cbb
このコラムは、月4回書きます。7日、14日、21日、28日の更新予定です。
ただし、このうち1回は、桜井が育てている若者が書きます。お楽しみに。
そして、いよいよ、YouTubeのことですが、
『モモの部屋』という、集まりを主宰します。
この『モモの部屋』は、ライブ配信だけでなく、コラム『カシオペイア』、講演会『円形劇場』、未定稿小説『奥山村物語』の4本の柱から成り立っています。
ライブ配信はそのタイトルを、
ライブ配信『52週の冒険』
これは、毎週月曜日の20時から30分程度ライブ配信で、自然体験活動と、そこの人材の養成について、桜井が語ります。
毎週1回は、私自身にとっても、相当なチャレンジであります。
結構緊張しています。
コラム『カシオペイア』は先に申しあげたとおりです。
講演会『円形劇場』は、いくら、デジタルを駆使しても、フェイスツーフェイスは大切と思っています。
そこで、自然体験活動の周辺の企業の方や人材で、かつ、若い方にお話をいただこうと思っています。
月1回程度で開催しようと思っています。
どんな人が来るかは、逐一お知らせしていきます。
最後の柱が、未定稿小説『奥山村物語』です。
これは、もう3年目に入る小説です。
自然学校が出来上がっていく物語です。
是非、この4つの柱からなるつどいに、あなたもご参加いただければと存じます。
https://peraichi.com/landing_pages/view/momo409
このサイトに、概要があります、そしてお申し込みお問い合わせもできますので、一度是非覗いてみてください。
改めまして、
長い間、『道草しながら』をご購読いただきまして、ありがとうございました。
そして、新しいコラム『カシオペイア』も、よろしくお願い申し上げます。
]]>
なぜなら、人が生きていく上で、大切な身体の動きや、人との付き合い方を身につけるには、とても有効な場所だからです。
そして最も重要なのは、今の日本で、命の大切さや、生き死にのことを考えるチャンスがあるのは、身近な人の死と、誕生ぐらいしかないのではないでしょうか。
その、死や誕生も病院の中で行われ、立ち会うことが許されなければ、どんどん遠のいていくことになります。
そんな大切な自然体験活動をいかに存続させ、振興させていくかを考えるとき、私たちは、今の日本の社会の状況をきちんととらえなくてはいけないと思います。
私が、自然体験活動を仕事にしてから、早40年をこえようとしています。
その間、世の中は、とても大きく変わっています。
その大きく変わった世の中で、もちろん子どもたちも大きく変わっています。
さて、そんな中で、私たちが勧める自然体験はいったいどうすればいいのでしょうか。
変わらなくてもいいことも多くあると思いますが、変わらなくてはいけないこともまた、あると思います。
そんな中で、私は新しい挑戦をしようと思っています。
自然体験の中で、何が変わらなくてはいけないのか、何が変わってはいけないのかを、確かめるために、少し変わったことをしてみようと思うのです。
それは、人を育てるために、今までは、面と向かって話をしたり、実際に自然の中に連れて行って活動をしたりしていました。
もちろんそういうことは大切だと思います。
いいえ、変わってはいけないことだと思います。
しかし、面と向かって話を聞いてくれる人や、一緒に自然の中に分け入ってくれる人が減ってしまっているとしたならば、そこは、考えなくてはいけないことではないでしょうか。
変わらなくてはいけないところがあると思います。
そのために、インターネットを使ったライブ配信で、色々な人に語り掛けていく活動を始めます。
それに伴って、このコラムも少し、変化させていこうと考えています。
詳しくは次号で…。
さて、ライブ配信ですが、毎週一回1年間で、52回行います。
これは、指導者や、社会で有用な人材となる人たちに向けてです。
その中で変わってはいけないことなどを語りかけていけたらと思います。
私にとっても、とてもチャレンジングなことです。
ぜひ、みなさんも視聴していただけますよう、お願い申し上げます。
同時に、これから指導者になろうと思うような、社会に出ていこう、社会に出たばかりの、これから社会に有用な人材になろうという人たちのための活動の研究もしていきたいと考えています。
これは少し時間がかかるかもしれません。いつか、発表できたらいいなと思います。
まずは、4月からのライブ配信をご期待ください。
今はやりの言葉で言えば、『ユーチューバー』ですかね。
これらの詳細も次回、お知らせしたいと思います。
]]>本屋さんは、万引きに悩んでいるという話を聞いたこともあります。
本というのは1冊盗まれると大体5冊から10冊弱売らないと元は取れないそうです。
そんな折、この新聞記事のタイトルに少なからず、ドキッとしました。
絵本屋さん…本屋さんの本を赤ちゃんが破いてもいい?…それはないだろう!
1冊破られて、商品にならなくなったら…10冊売らないといけないのでしょう?
しかしよく読めば、本屋さんというより、本が置いてある幼児の有料遊戯スペースでした。
入場をとるのですから、そこに置いたある本は、遊具と同じですね。そして、ちょっとうがったものの見方をすれば、本屋と称しておけば、幼児が破った本は、親が恐縮して買ってくれるのではないでしょうか?
うまいこと考えたものだと、感心しました。ちょっと、下衆の勘繰りでしょうか?
私が小さい頃は、棒を持つと、パシッと草を切ったりする遊びをした記憶があります。
大人には植物が可哀想だからやめなさいと言いますが、大人は、このような子どもはまたするのだろうな…ということもわかっています。
しかし、家で本を破れば、厳しくたしなめられるでしょう。本当に2度としてはいけないという叱り方をするでしょう。
なぜなら、本を破ってもいいという子どもが育っては困るからです。
何が言いたいかというと…確かに子どもはやんちゃなものです。
そのやんちゃさを、どこで発揮させてあげるのがいいのでしょうか?
それは本屋ではないのです。本屋ではいい子でなくてはいけないのです。
いい子でいられるようになった子どもでないと、行ってはいけない所なのです。
そして、やんちゃをしていいのは、野山なのです。
駆け回り、膝小僧をすりむき、草をむしって、昆虫を捕まえて、時には殺してしまう。
そんな経験をしても許される環境が、野山なのです。
野山でするべきことを、本屋ではさせないほうがいいのではないでしょうか?
逆に言えば、やんちゃは野山でさせましょう。
]]>
『子どもたちに苦労はさせたくない』から『子どもたちには楽をさせたい』に、いつからすり替わったのでしょう?
ここで言う苦労というのは、どういう苦労でしょう。
それは戦中戦後の苦労です。
すなわち、戦火に逃げまどい、自分の家族を戦場に送り出し、その心とは裏腹に、戦死を尊ぶふりをしなくてはいけない苦しさ。
そして、戦後の焼け野原で、食べるものもなく、生死の境をさまよう苦労です。
しかし、人が成長するのには、「苦労は買ってでもしろ」と言われるように、ある程度の苦労を若いうちにした方がいいはずです。
それがいつの頃からか、苦労はしないで、楽をして生きたいというようにすり替わるのです。
そして、それがより進んで、『子どもたちに楽をさせたい』ということから、『私は、私たちは、もっと楽をしたい』にいつからすり変わったのでしょうか?
結果、いつの頃からか、子どもには苦労はさせないほうがいいという発想になってしまったのではないでしょうか。
子どもを育てるのは「主に学校」という状況が生まれてくると、学校では苦労させたくないということになります。
学校での苦労と言うと、それは成績が悪く、きっと将来苦労するというイメージによるものでしょう。確かに成績は良いに越したことはありません。
それは将来苦労するからではなく、ちゃんと学ぶべきものが学び取れたということが確かめられるからです。
では、どこで苦労をするといいのでしょうか?
子どもの時に、地域社会の中で行われる教育活動では、大いに苦労ができるでしょう。
その苦労は、人生の糧になり、人格の厚みになっていきます。
その苦労とはどのようなものがあるでしょうか?
国際自然大学校では、オーバーナイトで何キロも歩く苦労を体験してもらいます。
山の中で一人で過ごす時間…食べ物も食べず、夜の寒さに震える活動もあります。
そんな活動が、現代の苦労の体験になるかどうか、真剣にもう少し考えないといけませんね。
時短しないで、楽をしない活動を真剣に考えたいと思います。
例えば、戦後の苦労を体験活動で再現するとしたら…
やはり食べ物がないということでしょう。
着るものもなく寒さに震えるということでしょうか。
もうひとつ、現代にも苦労があります。
それは災害でしょう。
災害の苦労はどのようなものがあるでしょうか。
列車やバスが止まり、自宅まで何十キロも歩いて帰らなくてはいけない苦労でしょうか。
体育館などで、多くの人と暮らさなくてはいけない、プライバシーのない苦労でしょうか。
もちろん戦後のそれも、災害のそれも、もっともっとつらい苦労があることは充分に理解しています。
しかし、その色々な苦労の中で、体験活動として、再現し学びに変えられることを考えてみたいと思うのです。
そして皆さんには、子どもにもそんな苦労が必要だということを考えてほしいと思うのです。
楽して生きていきたいと思うのではなく、少々の苦労は怖くないと思って生きて行ける人間を育てたいと思っています。
]]>ヒヤッとしました。
間違って、この眼鏡の上にリックサックを乗せていたら、眼鏡が割れて、座っている人に降り注ぐところでした。
さてこの眼鏡、どうしたものか…。駅で降りたときに、駅員さんに持って行きました。
「この眼鏡、網棚の上に落ちていたんです、車両は9号車でした。」
「はい」
と受け取ると、そのまま駅務室の奥に持っていってしまいました。
「ありがとう」もなかったですし、目線すら合わせてもらえませんでした。
え〜!そうなの…?と、ちょっと悲しかったです。いえいえ褒めてもらおうとは思っていませんが、「ありがとう」ぐらい言ってくれてもいんじゃないの。そうでないと、また何か拾ったときに届けようと思わなくなっちゃうよな〜。なんて思ってしまいました。
また、他の日です。
近くの駅まで歩いて行くときです。
道で、向こうから、お母さんが自転車でやってきました。
途中に電信柱があり、歩道が細くなっています。私は、気を利かせて、立ち止まり、自転車が先に通れるように少し端に寄ってあげました。
自転車が、電信柱の横を通り抜けてきます。
ちょっと頭でも下げてくれるかな〜って思いながら、お母さんの視線を求めたのですが…まるで、私がここにいないような雰囲気で通り抜けていくではありませんか。
思わず、後ろ姿を目で追ってしまいました。
どう見ても、私が道を譲ったのはわかったでしょう?
何か…あるでしょう?
何もないの?
また他の日でも、同じように、お兄さんの自転車に道を譲った時も同じような状況でした。
どう見ても、私が道を譲ったのわかったでしょう?
何もないの?
マンションのエレベーターです。
エントランスホールで待っていると、小学生が来ました。
エレベーターが来て、ドアが開きました。
小学生に「どうぞ」と言ったら、やはり視線を合わせず、まるで私がいないような雰囲気で先に乗り込んでいきます。
その後は、私を拒むかのようにドアに向かって黙っています。そして、降りる階のドアが開くと、脱兎の如く走っていってしまいました。
私、そんなに怖いのかな〜。
学校では、乗り込むときに先を譲ってもらっても、ありがとうと言ったり、目線すら合わさないようにって指導されているのかな?
日本人は目礼を忘れてしまったのでしょうか?
目線を合わせて、微笑んで、ちょっと小首を傾げる。
そんな挨拶が世の中を柔らかく、あたたかくしてくれるのではないでしょうか?
「ありがとう」と、言葉にして言わないまでも、ちょっと視線を合わせての目礼は、日本の良い習慣なのではないでしょうか?
]]>そして、山梨県の北杜市に移住しました。
そこで、畑仕事を一生懸命しています。
本当はそれだけではなく、まだ、いろいろと自然体験活動の振興のために頑張ってはいるのですが…
表向きは、そんなことは頑張らずに、畑仕事を頑張っていることにしています。
たまに東京で、バリバリ働いている人たちにお会いしてお話しすると、時に『まだまだ若いのだから、働きなよ。』と言われます。
そんな時は、頑張って畑仕事しているよ。と答えると、『そうじゃなくってちゃんと仕事しなよ。』と、詰め寄られるのです。
そんな時にふと、心配になるのです。
畑仕事はちゃんとした仕事ではないのでしょうか?
確かに、農協や道の駅に出荷するほどの沢山の野菜を育ててはいません。
しかし、私と妻が食べていくのを結構助けてくれる野菜を作っています。
今も、ホウレン草や、キャベツ、白菜などが、食卓を賑わせてくれます。
秋などは、結構たくさん採れたカボチャを実家に届けたり、ご近所にも配りました。
お礼に、うちで作っていないズッキーニなどをいただいたりしました。
こんな風に畑仕事をすることは、人間が生きていくうえで、一番大切な仕事の一つだと思います。
しかし東京の人と話をすると、畑仕事は仕事と認めてもらえないようです。
何故なんでしょう。
野菜や、コメや、お肉などは、農家の人が汗水流して育ててくれているはずなのですが、それは、仕事だと思わなくなっているのではないのでしょうか?
いいや、そんな野菜などを自家消費してしまう程度は、仕事と言えないのでしょうか?
しかし本来、人は、自分で食べるものを自分で育てて生きていくのが自然な姿だと思うのです。
それから、物々交換になり、販売するようになっていくのですよね。
私は、この物々交換こそが、今の時代にもてはやされているCtoCの正しい姿だと思っています。…まあ、CtoCはネットの世界での話題ですから、物々交換なんて論外といわれてしまいますね。
しかし、自分で食べるものを自分で汗をかいて育てるというのが大切な仕事だと思えるようにいてほしいと思います。
ただ、あまりストイックになるのも、行き過ぎではあるでしょう。
少しの自給自足と、少しの都会的暮らしを上手にまぜ合わせた働き方、仕事の仕方をこれからも模索していけたらいいなと思っています。
皆さん!私、仕事してますよ〜。
]]>
「信じる」という字と「者」という字で出来上がっています。
隣の者が信じてくれるから、儲かるということです。
では、隣の者は、何を信じるのでしょう。
現代社会はきっと大企業を信じるのでしょうね。
テレビのコマーシャルに出てくるような大企業のやることだから信じる。信じられるという感じなのではないでしょうか。
大企業は、あらゆる基準を厳格にして製品を作ってくれています。そのために莫大な経費もかけています。
その経費は、私たちが買う製品に転嫁されているのですね。
それは、何千何億個という数で割るから、小さな金額になるのです。
ですから、あらゆる基準を厳格にするためには、何千何億個という製品を生み出さなくてはいけないのです。
少し前の社会では、大企業を信用するのではなくて、目の前にいる人を信じていたような気がします。
例えば…「肉屋のおじさんが作るコロッケはおいしい。」
そのおじさんへの信頼で、毎日コロッケを安心して食べることができました。
人づくりというのは、厳格な基準のもと、何千何億人(個)を育て(作り)あげることはできません。
目の前にいるひとりひとりを見て、育てるしかないのです。
最近、学習塾なども、そのことを一生懸命に考えてくれているように思うのですが…他方、国の方針は、人を育てるということも大量生産できる経済活動の一部として考え始めているような気がしてなりません。
工業製品のように、このシステムに乗せれば、子どもが素晴らしい大人になっていくというような錯覚を持っているのではないでしょうか。
英語が話せれば国際人になれる?
大学に行けば立派な社会人になる?
何か違うように思います。
そんな中、私たちは、肝に銘じたいと思います。
人づくりを一生懸命することで儲けさせてもらうのが教育者です。
儲けるために人づくりをしてはいけないのです。
教育に誠心誠意励むからこそ、世の中の人たちが私たちを食べさせてくれるのです。
儲けるために教育をしてはいけないのです。
逆に社会は、そんな教育者をきちんと認めてほしいのです。
ひとりひとりの子どもに手間暇かける先生や、地域で子どものことを叱るおじいちゃんやおばあちゃんを、もっともっと尊敬してあげてほしいと思います。
]]>ただ、発電した電気は、電力会社に売電しています。
結構、晴天率の高い地域なので、発電もたくさんしてくれます。
大体、使った電気料金と同じぐらいの売電をしてくれています。
しかしこの太陽光発電、近所では森を切り開いて、大規模な太陽光発電所が作られたりしています。
本末転倒でしょう…自然とのかかわりを大切にしなくてはいけないから、その自然を破壊して発電所を作るというのはどうも納得がいきません。
では、自然エネルギーで発電する他の方法はないのでしょうか。
みんなが屋根の上に太陽光発電のパネルを載せるというのもいいでしょう。
しかし、雨の多いときなどは、発電できません。
小水力発電というのを見かけました。
日本中にある、田んぼの用水路を使って発電ができるというものです。
これはいいなと思いましたが…我が家の近くには用水路は流れていません。
また、この用水路を使うにはきっと、近隣の農家の方々の許可が必要でしょう。
近くに用水路がない家は、電線を長い距離を引っ張らないといけないかもしれません。
でも、みんなで話し合ったら何か解決策があるかもしれない…と思います。
例えば、発電機のそばにソケットがあって、そこに、各家庭が曜日や時間指定で充電に行くという風にしてもいいかもしれません。
田んぼの水は、そんな風に用水路から水を入れる時間を、それぞれが取り決めしていると聞いたことがあります。同じ方法ですね。
でもそのためには、ポータブルで持ち運びができるような充電器で、かつ、家庭に持って帰ったら、家庭用電源となるような充電器の開発が必要かもしれません。
素人の考えですから、無理なのでしょうかね。
我が家は、八ヶ岳の裾野ですから、吹きおろす風が強いです。
そんな風ならば、どこの家にも吹いてきます。
その風を使った発電もできたらいいな…とも思います。
もしかすると、その風力での発電が足りなくなる時、用水路で発電充電したもので、補う方法がいいのかもしれません。
ひとつの方法ではなく、いくつかの方法をうまく地域の事情に合わせて組み合わせながら、それが1つないしは2つの家庭用充電器に蓄積されて、家庭の電気をまかなうことができるようになるといいなと思います。
充電器も、もっと安くなるといいと思います。
そして、自分で発電した時に家庭に引き込むためのソケットがどの家にもついているようになるといいですよね。
最近そんな自家発電のことをよく考えます。
でも、それは大都会では無理かもしれません。
水の流れは、みんな地下に隠してしまいました。
風を受けることができるような、スペースは隣の家との間にはありません。
太陽光は辛うじて、屋根に乗せることができるかな?
でもマンションでは、あまり現実的ではないでしょうか?
でも共用部分の電灯とかになら使えますね。
もっともっと工夫をすれば、自然エネルギー発電は可能性があるように思います。
とはいえ、こうなると電力会社さんにとっては、仕事がなくなることですね。
でも、まず原子力発電所がなくても暮らしていけるくらいの自然エネルギー発電をみんなで目指したいですね。
]]>スキー場は大変な騒ぎになっています。
国際自然大学校の冬のキャンプも、大変なようです。
しかし本当に大変なのは…春からの農業の方が心配なのかもしれません。
雪解けの水が不足するのです。
もっと心配なのは、昨年の秋の台風の被害も、きっと影響を及ぼすというダブルパンチになるのではないかと考えています。
千葉での、枇杷農家の被害の話を聞きました。
枇杷の木はとりあえず何とかなるかもしれないけれど、潮風を防ぐ防風林が根こそぎ倒れてしまいました。
木にも塩水がかかっているでしょう。
そんな枇杷の木にちゃんと花が咲くかどうか。花が咲いても防風林のないまま、ちゃんと実が付くかどうか、想像もつかないそうです。
春になり、水がなくて稲や野菜に被害が出て、台風の影響でやはり野菜や果物にも被害が出るかもしれません。
まるで時限爆弾のように半年後、1年後に被害が現れてきます。
この半年、1年の間に、日本の商魂たくましい会社は、海外から野菜や果物を輸入してくれるでしょう。
もしかすると、日本で栽培するよりも安い価格での輸入ルートを開拓してくれるかもしれません。
すると来年から、日本の野菜や果物よりも安い、海外の輸入野菜や果物が通常の流通に加わり、日本の農業を圧迫してしまうかもしれません。
そうやって、日本の農業はどんどん衰退していくのかもしれません。
しかしある時、その輸入先の国が、台風や、集中豪雨などの被害にあったらどうなるのでしょう。今回のオーストラリアの森林火災なども、きっとオーストラリア産の農業製品に大きな影響を及ぼすでしょう。そして日本への影響も少なくないでしょう。
何かあると、外国からの輸入品に頼り、国内の農業を疲弊させていくと、結果、外国の生産地に何かあったとき、食べるものがないことになるのではないでしょうか。
まずは、春の水不足による農業をどうしたらいいか、みんなで考えなくてはいけませんね。
水不足は何を生むのでしょう。
農業生産量が減ってしまい、きっと、農業製品が高騰します。
その高い農業製品を買わずに安い輸入品を買いますか?
少しでも国産のものを買う努力をしませんか。
それから、みんなで少しでも、自分で畑を耕して、野菜を育てたりしませんか?
すると、耕作放棄地が減り、農産品が少しづつ増えるのではないでしょうか?
水不足なのに、農家が畑を作れないのに、自分たちで作れるわけはないだろう…と言われるかもしれません。
でも、家庭菜園とかなら、水道の水や、雨どいの雨水から貯めた水で育てることができるのではないでしょうか。
そんなふうに、小さい農業が日本の農業の原点なのではないでしょうか。
アメリカのように、工業製品のように農作物を製造するのではなく、手塩にかけて、命を育む農業が日本の農業の姿なのだと私は思うのです。
]]>お天気は最高の青空です。
誘われるように、散歩に出ました。
雪の日は、滑ったりして危ないかと思い、散歩に出るのは控えているのですが、今日は、そのすがすがしさにひかれて、思わず出ていってしまいました。
気温はマイナス5度。きちんとダウンを着てマフラーも手袋もして、完全防備で外に出ました。
外は、目を細めるほど、まぶしい日差しです。
しばらく歩いたら、汗ばむほどでした。
いつもの散歩コースを歩いていきましたが、雪の朝は少し違いました。
このあたりは、薪ストーブを備えたお家も多く、ほんのりと煙の香りが漂ってきます。
いい香りです。
歩く先には、八ヶ岳を仰ぎ見ることができます。
滑らないように、少し足もとに気をつけながら歩いていると、セキレイが雪の解けた道で、まさに私を道案内するように、ちょんちょんと前を歩いていきます。
角を曲がると、今度は富士山が正面になります。
中央本線、小海線をくぐって、またいで歩いていきます。
富士山は東側になるので、まぶしく輝いています。
田んぼの間の一本道を歩くと自然に胸を張って歩幅が広がります。
風が頬をなでます。
確かに冷たい風ですが、何とも心地よいものです。
そして、ぐるりと道をカーブすると、今度は南アルプス甲斐駒ヶ岳を仰ぎ見て歩くことになります。
何とも贅沢な散歩です。
最後は再び、八ヶ岳に向かって歩いて我が家に戻ります。
ゆっくり歩いて、約1時間弱、7000歩ほどの散歩でした。
風に香る煙の香り、
頬をなでる冷気、
雪を踏みしめる音、
セキレイが飛び立つときの鳴き声、
屋根の雪が解け落ちるしずくの音、
目をしばたたかせるほどの朝日の輝き…こんなことは写真ではお伝え出来なくて残念です。
そして、この五感を通して感じる朝の散歩での心地が、こういう田舎で暮らす宝なのだろうなと思っています。
]]>お店にバレンタインの看板が…
そこで気になって、日本で行われる外来のイベントを上げてみました。
2月 バレンタインデー
3月 ホワイトデー
4月 エイプリルフール
イースター(復活祭)
6月 ジューンブライド
10月 ハロウィン
11月 サンクスギビング(感謝祭)
ブラックフライデー
ボジョレーヌーヴォーの解禁
12月 クリスマス
4月のエイプリルフールと6月のジューンブライドは少し違うかもしれませんが、あとは、どれも、品物とつながているような気がします。
バレンタインデーは、チョコレート
ホワイトデーは、何でもとにかくお返しのプレゼント
イースターは卵
ハロウィンは、カボチャと仮装
サンクスギビングは、七面鳥とパンプキンパイ
ブラックフライデーはバーゲン
ボジョレヌーボーはワイン
クリスマスはとにかくプレゼント
何のための日かとか、なにをする日かと、言うこと、皆さんおわかりですか?
そんなことはお構いなく、物を買ったりあげたり、お祭り騒ぎをしたりしていませんか?
まあ、楽しければいいのかな?
日本中が何かイベントがないかと探し回っているような気がしてなりません。
企業はそんなイベントを見つけて、物を売ろうとしているような気がしてなりません。
日本人なら、日本のイベントを大切にすればいいのではないでしょうか。
1月 初詣 新年会 七草がゆ
2月 節分
3月 ひなまつり お彼岸
5月 こどもの日 母の日
7月 七夕 お盆
9月 彼岸 秋の七草
10月 十五夜 秋祭り
11月 七五三
12月 大掃除 大晦日 除夜の鐘
でも、なかなか、日本のイベントは商品に結び付いていませんね。
節分は豆まきだったのに、恵方巻が今はメジャーでしょうか?
恵方巻と節分が結びついていない人もいるのでは?
母の日はカーネーション?
ひな祭りはひな人形?
子どもの日はこいのぼり?
七五三は、千歳飴?
きっとこれらの行事に、恵方巻のように、何か商品が開発されて、企業が宣伝してくれたら、日本の行事ももっと、みんなで祝ったりするようになるのかもしれませんね。
]]>
先回、体調を崩したお話を少し書きましたが、その後体調が復調せず、12月の最後の号(12月22日号)をアップできずに、お正月を迎えてしまいました。
本当に申し訳ありません。
もしかすると570号をこえる『道草しながら』で初めて穴をあけたかもしれません。
ごめんなさい。
そして、あけましておめでとうございます。
皆様にはしつこいと思われるかもしれませんが、これからもこの『道草しながら』で、自然の中での体験活動の大切さを、お話ししていきたいと思っています。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、気を取り直して、今回のお話です。
昨年、ある会議で素敵なものをいただきました。
写真が何かお判りですか?
ヒノキの枝の薄切りです。
100年以上育った、大木の枝です。
この写真の下の方…色の濃い方が枝の下側になるそうです。
というのは、枝の重みを支えるために枝の下の方が太くなるのだそうです。
この枝は、4ミリほどの厚みですので、明かりにかざすと…
ご覧の通り、透けて、明るい赤色となります。
これは、前の写真のものと同じ板です。
そして、画像や、活字ではお伝え出来ないのが、香りです。
ヒノキの香りが、とても強く、心が落ち着きます。
この香りや、この色、肌触りなどは、コンピューターの検索では絶対に経験できないものなのだろうなと思います。
やはり体験活動は大切です。
]]>
医者に行って、薬をもらいました。
でもただの風邪ではなくて、ちょっと喘息だと診断されてしまいました。
まずいな〜
喘息児ではなくて、喘息爺(ジイ)な〜んて、ダジャレてる場合ではないですね。
でも、薬を処方してもらって、何とか復活してきています。
今後、医者で風邪薬を処方してもらえなくなったら、どうなるのだろうかな…と、考えてしまいました。
私のこの風邪は、自分で、風邪だな〜と思って、医者に行っても風邪薬が処方され、町の薬局で買うんだったら、医者に行かなくても同じだな…と、思って、ただの風邪薬を買って飲んでいたら、きっと相当こじらせていたように思います。
もうひとつ。厚生労働省が400を超える公立、公的病院の統廃合を検討が必要だと検討をしているそうです。
国は、採算が合わないから、風邪薬は保険適用でなくなるとか、病院を閉鎖するというのですね。
あれ!? ちょっと待ってください。
国は採算が見合うように病院を設置したり、保険制度を行っているのでしょうか?
国は儲からないから仕事しないということでしょうか?
これはちょっと言いすぎですね。でも、採算よりも、地域の中での必要性とか、弱者への手当こそが国の仕事なのではないでしょうか。
何か最近の国の政策を見ていると、お金持ちだけが生きて行けるような国になっていってしまうような気がしてなりません。
アメリカのマイクロソフト社の創業者のビルゲイツ氏の社会貢献活動は有名でありますね。
欧米の富裕層では、社会貢献や、寄付行為というのはその地位の証明のようなところもありますね。
高い地位にいる人、高い収入を得る人は、その証明というか、社会的に認知されるためには社会後年をすることもコインの裏表のように存在しているように思います。
日本でも、そのような企業の社会貢献のための財団がたくさん見受けられるようになってきました。
しかし、逆に国は、弱い人に優しくない社会をつくっていっているように思えてならないのです。
皆さんはどうお感じになっていますか?
]]>
暮らし方を考えたときに、今の道路の整備の仕方は、抜本的に考えないといけないのではないでしょうか?
今、地上を走る移動手段で一番早いのは新幹線ですね。
新幹線は、まさに点と点をむずびます。
新幹線の平均駅間距離は東海道32.5km。山陽36.8km。東海道新幹線:全長552.6km。山陽新幹線:全長622.3kmだそうです。
もちろん長短はありますが、30km以上の点と点をつないでいるわけですね。
これに比べ、車はもっと短い点と点を結ぶことができます。
お年寄りなどは、すぐ隣に行くのに車に乗る人もいます。
逆に、車で、新幹線並みの距離を移動する人もいます。
現代社会は、車に依存する人はこの2種類に大別できるのではないでしょうか。
だとしたなら、自動車会社も、この2種類の車を作ったほうがいいのではないでしょうか。
もちろん、道路も、それを考慮した設計をした方がいいのではないでしょうか。
例えば、
今の車は、長距離を移動することにたけた作りになっています。
街を走り回るには、もっと小さくて、もっと低速の方がいいでしょう。
スピードが出るから、早く移動しようとしてしまうのです。
初めから、最大40kmしか出なければ、その速さの暮らしを考えるのが人間でしょう。
軽自動車のような、かつ、何人か乗ることもできるような車で、40kmぐらいしか出ない小さめの車が走り回る地域と、その地域と地域をつなぐ、今の車。
そうすると、40kmまでしか出せないエリアは、道路も狭くていい。
歩道と、自転車や、電動のシニアカーなどが安心して走れる道路がそこに入る。
そうすると、言われるでしょう。
「建物を建てるための車が入れない。」
それならば、その運べる範囲でのもので建てましょうよ。
山小屋見てください。あの制約の中で、運び上げられるだけの資材で作っていますが、結構快適ですよ。
極端な理論かもしれませんが、そこまで考えて、道路行政も、街づくりも考えていかないと、今の産業を、日本中に広げようとか、世界中のモデルになろうというのは、資源的にも、財政的にも不可能なのではないでしょうか?
日本だけ、大都市だけがよければいいのでしょうか?
そうではないですよね。
世界の人々が幸せになれる、モデルになる日本でありたいと思うと、こんな社会つくり、街つくりを考えないといけないのではないでしょうか?
]]>災害の恐ろしさを。
10月17日の朝日新聞天声人語です。
『常に備えよ』は、政府でも地方自治体でもなく、各個人個人なのでしょうね。
と、言うのは、今度の災害を見て思うのです。
津波に襲われてしまえば、個人の備えも、行政の備えも、すべてが飲み込まれてしまいます。その時には、災害を受けていない地域が、いかに支援に動くかが大切になります。
それは、災害を受けていない地域の政はもとより、個人個人がいかに、他の地域が被災した時に支援をすることを心がけているかということでしょう。
以前国際自然大学校で、キャンプをしているときに、参加している子どもの家が被災したらどうしたらいいかということを話し合ったことがあります。
被災というと、被災地に自分がいた時、そこで被災してしまった時のことを考えがちです。
しかしこれだけ災害が頻発すると、支援の手が間に合わなくなります。
いかに多くの人が、自分が被災した時のことだけでなく、知り合いや、友達や親せきが被災した時にどうしてあげることができるだろうか、という備えをしておく必要があるのではないでしょうか。
先日の台風19号の被害の地域を見てください。
10月19日に朝日新聞が災害の状況をまとめていました。
いったいこれだけの地域が被害にあって、それぞれの地域で、仮設住宅を建てるためにはどれだけの大工さんが必要なのでしょう。
ひとつの地域に集中して、工事をするよりもずっと手間暇がかかることは明白です。
きっといまだに、支援の手が届かないところがあるのではないでしょうか。
先日も千曲川沿いを走りましたが、田んぼに転がった石は、まったくそのままでした。
もうすぐ雪が降ります。このままいけば、来年の田植えは行われないでしょう。
被害は、来年の農作物にまで、影響を及ぼすのです。
それも、13の都道府県で起きているのです。47都道府県のうち4分の1以上の県なのです。
そして、この件の面積合計は全国の3分の1強となります。県全体が被災はしていないでしょうが、こう考えると、恐ろしい面積ではないでしょうか?
新聞を見てください。
この大雨特別警報が出た地域(水色の部分です)を見てもその地域の広さが分かります。
これに加えて、千葉県は風の被害で、多くの農作物が被害を受け、多くの家の屋根は今でもブルーシートでおおわれています。
私たちは、常に備え、その備えをいかに人のためにも生かせるかを考えなくてはいけないのではないでしょうか。
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11月19日の朝日新聞にファミリーマートの沢田社長のコメントが載っていました。
当たっているな〜と感じました。
全国一律ではもう立ち行かない。
まさにそういうことですね。
夜中まで開けていて、ここ人が来るの? と思うような店もあります。
でもそこに、人が来るのですね。
車で、ちょっと不良っぽい若者が群れてきます。
ここにコンビニがなければ、とっとと帰るんだろうなと思います。
コンビニが、不良を助長している場合もあるんだと思います。
そして、そのファミリーマートは、このクリスマスのケーキを予約販売のみにするそうです。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191121/k10012185501000.html
儲けが、減ってしまうのでは…
ところが、土用の丑の日のうな重も、予約販売のみにしたら、廃棄ロスがなくなった分、利益は7割もアップしたということですね。
わかります?
例えば、
1000円のうな重10個が予約
10個を店の責任で入荷。計2万円を払うわけですね。
でも、売れ残りが3個出ると−3000円。売れたのは17個で一個につき、お店の儲けが300円とすると5100円の儲けとなります。
差し引き100円の儲けしかないのですね。
でも10個の予約だけにすると3000円の黒字となります。
この計算だと売り上げは30倍になるんですね。
一個の単価が高いうな重や、ケーキは、売れ残りのダメージが大きいのですね。
でも実は、日々の商品でもこうやって売れ残りが、ボディーブローのように、お店の首を絞めているのでしょうね。
だから、安く売ることも考えていきたいという声も出ているのですね。
さて、話をもとに戻しましょう。
新聞記事によると、最低賃金が上がるけれども、売上は伸びないということも書かれています。
最低賃金が上がった時点で、商品の値段も上がらないといけないはずなのに、その値段は、本部が決めて、アルバイト料の値上げを価格に乗せることができない。
地方で人がいなければ、アルバイト料を高くして、集めたいのに、そのお金がないということですね。
買う人にすれば、全国一律の値段はありがたいけれど、薄利多売ができない地方のお店は苦しくなる。
きっとコンビニも、東京都と、他の自治体との関係のように、たくさん儲けた店が、もうからない店を支援するなんて言うことも考えないと、地方の閉店は増えて、ますます、地方が疲弊するかもしれませんね。
でも、そんな地方は、開店している時間が短くなればいいのかもしれません。
そうすると、夜が暗くなって、星がきれいに見えるし、夜にたむろする若者がいなくなるのではないでしょうか。
教育的にみると、あまり夜遅くまで、若者がうろうろすることができる場所があるのはよろしくないでしょう?
そんな視点から、コンビニの営業時間を考えてもらってもいいように思うのですが。
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まず、以下のサイトをご覧ください。
【科学的に正しい子どもの教育――最高の学習ツールは〇〇〇だった!】と、いう記事です。
そして、その〇〇〇は “あそび” だそうです。
ビックデータから解析する科学的根拠(エビデンス)によって、そう判断されるのは、大変うれしいことです。
そして私は、職人の勘から、その通り!と、強く思いました。
しかし、みなさんに勘違いしないでいただきたいのは、遊びの時に、
こんなことを、感じました。
自由に遊ぶことがいいというのですが、自由に遊ぶときに、子どもにとって好ましい環境は、周りに友達がいるということなのではないでしょうか?
だからこそ、動きが生まれ、会話が生まれるのではないでしょうか。
まだあまり言葉が出ない小さな子どもでも、友達と一緒にいれば、そこにはコミュニケーションがあり、そのコミュニケーションが、大人になってからのコミュニケーション力に影響を及ぼすのではないか…と、私の勘は言っています。
その遊びを自然な遊びとするならば、遊びを考えていくことが必要で、決まった遊びをする電子機器は、よくないということになります。
五感を使ったり、身体や頭も使ったり、思わぬところに発見や感動が生まれたり…そんな自然環境の中での遊びが、一番いいのでしょうね。
でも、そう簡単に、いつでも自然環境の中に子どもを連れて行けることができないのが、今の生活でしょう。そんな時、どんな環境を用意してあげればいいのでしょうか。
リビングに、ただぽつんと子どもを置くのではいくらなんでも…何もなさすぎますか?
小さな子どもが、箱ティッシュを、楽しそうにみんな引っ張り出してしまったということを聞いたことがあります。
案外、何もないと思っても子どもは周りにあるもので遊ぶかもしれません。が、箱ティッシュで遊ばれては困りますね。
何が楽しいかわからないような、素材的なおもちゃがいいのかなと思います。
そこで思うのが、積み木とかですね。
遊び方は特に決まっていない。そんな素材的なおもちゃが子どもにはいいのかもしれません。
積み木ってイメージわきますか? 思えば最近見ていないな〜と思います。
出展:http://sakai-toys.jp/?pid=54339690
でも、できれば、身近なところに子どもが遊べる自然環境があるところで、家族で暮らせるといいですよね。
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今年の読書週間は2019年10月27日(日)〜11月9日(土)の2週間です。
公益財団法人 読書推進運動協議会のホームページには…
読書週間の歴史 終戦まもない1947年(昭和22)年、まだ戦火の傷痕が至るところに残っているなかで「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」という決意のもと、出版社・取次会社・書店と公共図書館、そして新聞・放送のマスコミ機関も加わって、11月17日から、第1回『読書週間』が開催されました。 そのときの反響はすばらしく、翌年の第2回からは期間も10月27日〜11月9日(文化の日を中心にした2週間)と定められ、この運動は全国に拡がっていきました。 |
すっかり影が薄くなった感がある読書週間ですね。
しかし、やはり本を読むというのは大切なことだと思います。
と言いながら、このようにサイトを見て、答えを探している自分がいるのですが。
さてみなさんは一年間を通して、どんな本を読んできましたか?
私の最近の読書の傾向は歴史ものというのでしょうか。
江戸時代の捕り物の物語を読むことが多いです。
それは、妻と、母が読んだものが回ってくるのです。
それらの多くは文庫本の歴史小説なのです。
しかし電車に乗って読むのには文庫本が最適です。
なんといってもかさばらず、単行本に比べれば軽いです。
そして値段も安い。
そんな娯楽本を読んでいる中で、今年気に入った本を一冊ご紹介しましょう。
それは、山本甲士さんの『ひかりの魔女』と、いう本です。
これは歴史小説ではありません。
ひとりのおばあちゃんが、いろいろな人を、その知恵で、幸せにしていくという本です。
おばあちゃんの知恵という押しつけがましいものではなくて、フッと微笑んでしまうような仕掛けで、幸せにしてくれるのです。
そうそう、このおばあちゃんが、立禅というトレーニングというか健康法というか…を、しているのです。
それをネットで調べたら、本当にあるものでした。
最近、私も、その立禅はじめてみました。結構きつくて、筋肉痛になったりもします。
それから、もう一冊。
この本は、私の大切な本でもあり、何度か読み直している本です。
ミヒャエルエンデの『モモ』です。
どちらもとっても読みやすい本ですので、よろしければ一度お読みいただければと存じます。
なかなか本を読むことがなくなってきた昨今ですが、みなさん、読書週間の間だけでも、一冊くらい読んでみませんか?
ネットで何でもわかってしまう時代です。
それも、要約された結論ばかり読んでいるような状況です。
だからこそ、一文字一文字活字を追っていって、やっと結論にたどり着くような読書をお勧めします。
読書をすることによって、結論を手に入れるのではなくて、結論を手に入れるために必要な思考の技術を手に入れることができるようになるのだと思うのです。
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何か、私たちの購買欲をあおっているような気がしてなりません。
そんなニュースに踊らされて、
新しい何とかヨーグルトのお店に、わざわざそのヨーグルトを食べに行ったりしちゃいます。
少し寒くなって、新しい冬物の防寒着を買ってしまったりします。まだ使える防寒具あるのに…です。
新しくできた、評判のレストランに行ってしまったりします。
銀座にブランドの基幹店ができたと聞いて、そぞろ歩いたりしてしまいます。
それが、幸せだな〜と思うようになっていますね。
いくらお金があっても足りません〜。
でも新しいヨーグルトもいいですが、
……取れたてのブルーベリーでソースを作って、ごく普通のヨーグルトにかけると、これが結構おいしいです。
時間もかかりますが、幸せな気持ちになれるのは同じくらいではないかなと思います。
新しい冬物の防寒着もいいですが、
……襟がほつれてしまったカッターシャツの襟を丁寧に切り落として、スタンドカラーにしたら、結構新しい感じで、いいかなって思っています。
ズボンも、つぎはぎして、作業着にしています。わざと継ぎを外に見えるようにしたら、結構お洒落かなと、悦にいっています。
防寒着は去年ので、いいかなって…
評判のレストランにっくのもいいですが、
……畑に行って、とりたての野菜で、サラダつくったり、炒め物してもおいしいです。
時には畑で採ったばかりのトマトをその場でつまみ食いすると、こんなおいしいものはないと思います。無農薬だからできることですね。
銀座をそぞろ歩くよりも、
……朝の散歩で見る、稲穂の先についた露のきらめきや、稲刈りの後の、天日干しの風景の美しさや、その香りは、銀座のウインドーショッピングにも勝るのではないでしょうか。
ましてやそのお米が食べられると思うと、この朝の散歩のウインドーショッピングもワクワクしてきます。
でも、都会に住んでいては、そんなことはなかなかできませんね。
だからと言って、私も、ストイックに生きているわけではありません。
昔、田舎で暮らしていた人に比べれば、おいしいもの食べに行くといった、イベントをすることも時々ありますし、洋服だって、あたたかいものを着ています。エアコンも使ってしまいます。
でも、少し幸せの価値観を変えると、実はずいぶんお金を使わない生活になるものです。
すると生活にも余裕ができてきます。
家族の時間を大切に持つこともできるようになります。
家族のイベントは、着飾って出かけることではなく、一緒に畑仕事したり、散歩したりすることで、十分に幸せになることができると思います。
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辞書を引いてみました。
『一日に、ひとつでよいから善い行ないをすること。』だそうです。
善い行ないというと、どんなことを想像されますか?
道に落ちているごみを拾いますか?
なかなか勇気がいりますよね。周りの人の視線が気になったります。
それに、最近では拾ったごみをどこに捨てるのか悩んでしまいます。なかなか、公共のごみ箱がないですからね。
電車やバスで、お年寄りや体の不自由な人に席を譲りますか?
これも勇気がいりますよね。
私の場合は、譲られる方になってきてしまいました。こういうことが歳をとるということなんだなとつくづく感じる瞬間であります。
でも、せっかく勇気を出して、席を立ってくれたんだから、拒まず、お礼を言って、快くその気持ちを受け入れることにしています。
お年寄りが重そうな荷物を持っているときに、お手伝いしますか?
疑われそうですよね。悪い人が、荷物の持ち逃げするのではないかと。
そう思われるのではないかと思うと躊躇しませんか?
ベビーカーを、階段で運んでいるお母さんのお手伝いをしますか?
これは、わりと気軽にお手伝いできるような気がしますね。
でも、最近はエレベーターが普及して、なかなかそういうベビーカーには出くわさなくってきています。
朝、学校に行く子どもに、笑顔で「おはよう!」と声をかけてあげますか?
最近は子どもは、すれ違う知らない人とは言葉を交わさないようですね。
ですから、けげんな顔をされてしまうばかりです。
でも…私の住んでいる田舎での話をさせてください。
先日の台風の時、カマキリが玄関扉の前に置いた土嚢の上で雨宿りしていました。
ドアを開けるのを、少し小さめにして、カマキリが居続けられるようにしてあげました。
以前にも書いたかもしれませんが、
何故か、アスファルトの上に這い出してきてしまったミミズを土のある所に移動してあげました。
田舎では、一日一善も日常の中でしやすいと思います。
それも、命…小さな命ではありますが、救うという一善です。
しかし逆に、殺生をすることもたくさんあります。
草むしりをしていて、鎌でカエルを偶然殺してしまうことも度々です。
しかし、そんな殺生をするからこそ、命の大切さを感じ、一善を行なおうと思うのかもしれません。
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雨が降り続き、家の周りは、どこもかしこも水浸しです。
おかげさまで、今のところ、家には何の影響もないですが、昨日(10月11日)は、家の周りで、台風対策に汗を流しました。
何をしたかというと…
物置を改修するために、物置の中身をベランダに積み上げてあるので、それに水かからないようにしてある、ブルーシートの庇の補修をしました。
もちろん積み上げてある、物置にあった荷物も飛ばないように、ネットで抑え込みました。
シートのあおり防止に、ロープを十文字に張りました。
ゴーヤの棚の支柱の補強をしました。
トマトのビニールハウスはもちそうもないので、外してしまいました。
家への進入路の水はけのために、溝の掃除もしました。
これで大丈夫だろうと思っていたら、今朝からの雨の中で、雨どいが2箇所も詰まっていることを発見しました。
今から屋根にあがるのは危ないな〜と思い、もしかしたら!と思って、竹の棒で雨どいの管をガンガンと叩いたら、ザバ〜と詰まっていたわらくずのようなものが流れ出てきて、見事に開通しました。
たぶん鳥の巣になっていたのでしょう。うまくいって、ちょっと感動しました。
車の駐車をしている家の前にも水がたまってきて、心配なので、玄関前に水嚢を置いて、簡単な堰を作りました。
大分安心です。
こんなことをしていると、ほぼ1か月前に南房総での、台風15号の被害を思い出します。
私が以前勤務をしていた、南房総市大房岬自然の家周辺の公園が、甚大な被害を受けたので、少しでも応援にと思い、いろいろなものを車に満載し、行ってきました。
きっと、今、この時も、私の心配の何十倍、いや何百倍も、心配し、雨が漏る家に後ろ髪を引かれる思いをしながら、とにかく身の安全をと思って、避難所に身を寄せている人たちがたくさんいるのだろうな…と思っています。
南房総市大房岬自然は、千葉自然学校が指定管理で、南房総市からお預かりしている施設で、冨浦町に位置しています。
そして千葉自然学校は、千葉県内の自然学校のネットワーク組織でもあります。
したがって、冨浦町の方々の支援や、千葉県内の自然学校の支援も担っている施設であります。
県内の自然学校の中には、自分の施設に、木が倒れすぎていて、入っていけないところや、稲刈りの時期にあたってしまい、300万円からの収入を失った団体もあったようです。
お怪我をされた方もいると伺っています。
心からお見舞い申し上げます。
その傷も癒えぬうちに再び襲ったこの台風19号で、今度は関東地方のそこかしこで、この千葉のようなことが起こるのかと思うと、いったい何をどうすればいいのか、おろおろしてしまいます。
とにかく皆さんが、ご無事なことを祈るばかりです。
(この原稿をお読みになるころには、皆さん落ち着いていらっしゃると思いますが)
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社会というのは日本という意味です。
日本は、においをなくし、そこに自分の好きなにおいをつけるような社会になっているようです。
まず、自分のにおいを消す。
家の中を無臭化しようと、いろいろなものを使う時代になりました。
しかし、知らない間に、それぞれの家庭にはにおいがあるものなのではないでしょうか?
そのにおいは、すっかり慣れてしまって、それを感じないようになっています。
しかし、しばらく旅行したりして帰ってくると、自分の家のにおいに気が付きます。
そんなにおいを消そうと、頑張っている人がいるのですね。
しかし、無意識になってしまい、感じているのに意識しなくなっているにおいでも、実は感じているのでしょう。
その、無意識のうちに感じているにおいに、子ども達は安心感を得ているのではないでしょうか。
私の八ヶ岳の家に、お客さんが来ると、『ああ、いい木のにおい』という方がいます。
私自身はもう何のにおいも感じていないのですが、そうなのですね。
木育教材に箸つくりというのがあります。
ヒノキの箸を作るのですが、その削っている最中にはとても素敵なヒノキの香りが立ち込めます。
なんとも、気持ちが落ち着くにおいです。
私たち日本人が、無意識に落ち着くにおいというのもあるのかもしれません。
外国人が日本に来て、『日本は味噌のにおいがする』と、言います。
私がその昔ブラジルに行ったときには、肉を焼くにおいを感じました。
家にも国にも、それぞれのにおいがある。
それでいいのではないでしょうか?
もっと自分のにおいに、愛着を持ってもいいのではないでしょうか?
もちろん、体調が悪いサインとして出てくるような口臭とか、体臭には注意しなくてはいけないでしょう。
しかし、自分の家のにおいや、周りのにおいを愛おしく思うことも大切だと思います。
お母さんにくっついて顔をうずめる子どもを見ると、きっと、においをかいで安心しているのだろうなと思ったりします。
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幼稚園の活動を森の中でするというものです。
園舎は自然の森の中。
そんな活動を先日、山梨県の河口湖で見学してきました。
子どもの肖像権などがあるので、写真は撮れませんでしたが、そのかわり、感じたことをメモしてきました。
ちょっと、散文的になっていますが、私が現場で感じたことです。皆さんがこの文章から森のようちえんを感じていただければと思います。
朝露を踏みしめ、づんづん づんづん
クマよけの鈴が、カラン カラン
今! いい匂いした〜
クロモジの木だ
子どもが歩くだけでも、道はできる
坂道を登ってはかけおり
あぁぁぁぁ〜
ススキをとって振ってみれば
今の私はこんなに大きく背が伸びた
魔法の手
君たちは目をうばわれる?
足元の土か
手の届く草木か
あおぎみる大空と、こもれびか
それは私たちの予想をはるかにこえる
走る走る 追うもの、追われるもの
その躍動は、横たわる丸太に
軽々ととびのり、とびおりこえていく
大人にはもう追いつけまい
その姿はすでに私たちをこえた自然
ギーでもなければ、ギャーでもない
その声はどうすれば出せるのか
日本語でも英語でもなく
君たちにだけ通じる言語は世界共通?
草々の中に緑を探し、それは私の今のもの
土の中に茶色を探す、それは私の今のもの
少し怖い、でも行きたい
どうして、なんで、どこで
勇気と興味が、今の怖いをのりこえる
そして楽しい
とんでみた
すべって、すってんころりん
お尻がいたい
泣かないぞ、頑張ってるんだ、
泣かないぞ
でも、でも、甘えたいときもある
くっついて、くっついて、すりすりして、ギューってして
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千葉県の台風15号の爪痕を目の当たりにしてきました。
風の通った道…そこはブルーシートの屋根で、その跡がはっきりとわかりました。
ブルーシートがない家でも…海沿いの家は、もともと重い瓦を使っているのですが、その瓦が一度浮いて、また元に戻ったそうです。よ〜く見ると、やはり瓦がずれています。もちろん雨漏りがして、屋根瓦は全とっかえが必要だそうです。
お年寄りは「私は大丈夫」と、お風呂に呼んでもなかなか来てくれないそうです。
我慢をしてしまうのでしょうか?穿った見方ですが、戦争の傷跡のような気がしてなりません。
いたるところで倒れた木が電線に倒れ掛かり電気が流せない。
東京電力の見通しの甘さに一時避難の声が上がりましたが、現場で働く電力マンを見れば、頭が下がります。
私が南房総に向かう時に、東北電力の車が並走していました。支援に駆けつけるところだったのでしょう。
南房総に朝の8時に着くには、東北を一体何時に出てきたのでしょうか?
現地でも、いたるところで、全国各地の電力会社の車が作業をしていました。
後日テレビで見たのですが、木更津の大型ショッピングモールの駐車場を基地にして、皆さん自前でテントや食料を持ち込んでの作業をしてくださっていたようです。もちろん風呂にも入らず。本当に頭が下がります。
私が訪れたのは前の職場でありました、南房総市の大房岬自然の家です。
職員はもちろん獅子奮迅の働きでした。
施設そのものもダメージを受けていますが、それよりもひどかったのは、大房岬の公園でした。岬のほとんどと言っていいほどのマテバシイの木々が、根っこから倒れて、道をふさいでいます。
多くのボランティアの方々が、その倒木の伐採に来てくれていました。
支援物資もたくさん届いていました。
自然の家は、地域のボランティアセンターとなり、地域の方々への支援も同時に行っていまいた。
届いた物資を軽トラに積んで、やっと開いた道を、電信柱が倒れ掛かかる道を、その電信柱をくぐって、地域の方々に配って回っていました。
今は電気も通り、ひと段落の状況なのかもしれません。
いつの災害もそうですが、ひと段落すると、外の人々は、新しいニュースに目を奪われ、その後の被災地のことに目がいかなくなります。
東北しかり、熊本しかりです。
南房総の、自然学校を回りました。
米つくりの体験をしている団体は、ちょうど稲刈り体験を受け入れる時期にあたりほぼ壊滅状態。300万円の減収ということです。
ミカンの収穫体験とキャンプ場の団体は、どれだけの被害かすらわからないということです。
ミカンの木もたくさん根こそぎ倒れていました。
もちろんミカンはたくさん落ちてしまっていました。
みんな、暮らしてくための活計を失っているのです。
これからは、行政の支援もでしょうが、私たちからも経済的支援が必要なのではないだろうかと、とても感じました。
もしよろしければ、皆さんの志をお願い申し上げます。
https://www.chiba-ns.net/oshirase?id=945588
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お昼は何を食べましょうか?
何にしようかな〜?
日本は、いろいろな国の食材を輸入して、色々な国の食事を食べることができます。
海外に行っても、これほどバラエティーに富んだ食事を毎日選ぶことができる国はないと言ってもいいのではないでしょうか?
なのに、なにを食べようかな〜 と、迷う毎日ではありませんか?
しかし私は、山梨県のちょっと田舎に住まっていますが、こちらでは、それほど色々な食事ができるわけではありません。
逆に新鮮なものは食べることはできます。
夏は毎日、ナスにピーマン、キュウリ、トマトを、どう料理しようかと頭を悩ませます。
何を食べようかではなくて、ナスをどう食べようか、キュウリをどう食べようか。となります。
お肉などと一緒に炒めたり、煮たり、揚げたりするわけです。
飽きるでしょうって?
いいえこれが結構、飽きないのですね。
畑仕事をして汗をかいた後は、何を食べてもおいしいということなのかもしれませんが、いつもおいしくいただいています。
先ほど、日本は色々な国の食材を輸入して、色々な国の食事を食べることができると申し上げましたが、これはちょっと間違いかもしれません。
日本はではなくて、東京は、大阪は、かもしれません。
特に「東京は」でしょうね。
毎日テレビのニュースの中で、これでもかというほどのレストランの紹介がありますし、そのメニューが、もう新しいものを考えつくしているのでしょうね。これとこれを組み合わせる?というようなメニューです。
以前から私は、「日本は発明が必要を追い越した」と申し上げていますが、食事も同様ですね。
食事のメニューが食べたい気持ちを追い越してしまったようです。
ですから、何を食べたらいいかわからない。
そんな時は、一生懸命に家の掃除をしてみてください。掃除機をかける掃除よりも、床や窓を雑巾がけするのがいいでしょう。そうやって、汗をたっぷりかいた後に、塩おにぎりや、梅干しご飯を召し上がってみてください。何よりもおいしいと思いますよ。
珍しいものを食べるよりも、何を食べてもおいしい生活をするのがいいように思います。
そうすると、日本の飽食も少し解消できるのではないでしょうか。
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だとしても、素朴な疑問があるので、ここで少し書かせていただきます。
保険料の削減のために風邪薬や、湿布薬は、病院から処方しなくなるというニュースを聞きました。
「薬局で買いなさい」ということのようです。
風邪程度で、医者に来るな…ということでしょうか?
でも、風邪は万病のもとと言いますよね。
例えば…インフルエンザか、風邪かの判断は誰がするのでしょうか?
多くの人が、風邪だからといって薬局で風邪薬を買って飲んでいて、インフルエンザだった…肺炎になってしまったという人が増えてしまうのではないでしょうか?
「どうしてもっと早く来なかったの!?」という、お医者さんの叫びが聞こえてきそうです。
夜、どうしようもなくなっての、急患も増えそうですね。
そうなっていくと、重篤な患者さんが今までよりも増えていくかもしれないと思うのです。
そう。すなわち、命の危険に陥るようなことが増える改定なのではないでしょうか?
なぜ改定をするかというと、高額の特殊な治療も保険で行えるようにするということです。
特殊な、重い病気の治療のために、少々重い病気になる人が増えてもいいということでしょうか?
それに、そんな少々重い病気になる人が増えたら、結局保険料はたくさんかかってしまうのではないでしょうか。
それに、それに、高額な特殊な医療費は、自己負担も当然何十万円もして、ある程度のお金持ちでないと受けられない医療なのではないでしょうか?
もっともっと、色々な治療が開発され、高額医療の方法が増えてきたら一体どうするのでしょう?
科学の進歩はどこまでも進めたとき、人はなかなか死ななくなると、日本の国はどうなるのでしょう?
何もかも仮定の話なのですが、想像の話なのですが…どうも、ある程度以上の生活水準にある人たちのことを一般の人たちと想定した、社会に進んでいっているような気がしてなりません。
山登りをするときは、一番体力のない人に合わせて、登るのが鉄則です。
弱い人を置き去りにして、山に登ろうとしているような気がしてなりません。
医療費だけでなく、オリンピックの建設ラッシュのために、熊本の被災地などの工事が全く進まないと聞いたこともあります。
復興オリンピックといっていますが、復興妨害オリンピックになってはいないでしょうか?
キャッシュレスの消費税還元も、都会にはたくさんありますが、地方では使えないということも聞きます。
お金持ちや、大都市の人を見て考えられている社会の仕組み作りは、もう少しよく考えないといけないかもしれないと思います。
]]>そのうち、月2回は、国際自然大学校の機関誌『OUTFITTER』に掲載していました、私のコラム「雑記帳」の再掲載を行ってまいりました。
しかし、先日の掲載でお気づきになられた方もいらっしゃるでしょうが、この再掲載が、追いついてしまいました。先日の掲載が、6月の分でした。
というわけで、これを持ちまして「雑記帳」の再掲載を終了させていただき、月4回とも、書き下ろしのコラムにさせていただきます。
このコラムをスタートしたころはまだ現役で仕事をしていましたので、月4本の書き下ろしは厳しいと思い、2本は再掲載でご勘弁いただきました。
しかし、現場を離れた今、4本も頑張ればかけるかなと思っています。
また、みなさんに伝えたいことも、たくさんあるようです。
とは申せ、ちょっと手詰まりになるかもという不安も若干あります。
是非皆さんからも、原稿のネタになるようなお話をお聞かせください。
また、「ここ見て原稿に書いて」というようなところのご紹介もお願いします。
観光地ではなくて、自然体験の現場ですよ(笑)
というわけで、次号から、月4本、すべて書き下ろしになります。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
また、このコラムを掲載させていただける、酒井産業さんは、自然体験活動を、木を使った教材という側面から支援していただいています。そのホームページ(http://kiso-sakai.sakura.ne.jp/)にこのコラムを掲載させていただけることに深く感謝申し上げます。
]]>ただし、2019年7月15日に加筆修正しました。
八ヶ岳の我が家から小淵沢の駅まで、40分程度歩いています。
先日も満開の桜の中を歩いていると、私を追い越しいた郵便局の車が、私の前に止まり、郵便屋さんが降りてきました。
そして「もし郵便を出すなら預かりますよ。」と、話しかけてくれました。
私は、小さなスマートレターとハガキを手に持って歩いていたのです。
怪訝に思いながらも、優しい郵便屋さんだなと思い「ありがとうございます」と、その郵便物を託しました。
にこやかに受け取った郵便屋さんは、車に乗り込むと走って行きました。
そして、少し先に見えていた郵便ポストの前に止まると、郵便物を集荷して行きました。
な〜るほどと、私は得心しました。
ポストに郵便を入れるであろう私を追い越して、集荷してしまえば、私の郵便物は明日の集荷になってしまう。だから、わざわざ車を止めて、預かってくれたのでした。
これは、田舎の良さかな…と、思いつつ、優しい郵便屋さんだな〜と、改めて、その郵便車に頭下げてしまいました。
きっと、見えなかったでしょうが。
もうひとつの体験をお話ししましょう。
川崎のマンションで、ゴミを出そうと集積場のドアを開けました。
サーッと走ってきた小学生が、私の開けたドアの隙に、実に巧みにゴミを、ぽ〜んと放り込みました。
そのまま行こうとするので、「おはよう」と声をかけると、驚いたように小さな声で「おはよう」と言いました。言うが早いか駆けて行ってしまいました。もちろん「ありがとう」の言葉はありませんでした。都会では、知らない大人と話してはいけないと教育されていますからね。
このように、同じ人間が暮らす環境でも随分違います。
前者の郵便屋さんのようなことは、何かまわりから監視されているようで嫌だと感じる人もいるかもしれません。(私は、いい感じなのですが。)
後者の子どものことは、どう考えても、もう少しコミュニケーションとりたいですよね。
どちらも、帯に短し襷に長しの状況なのかもしれませんね。
その中間を行くような街づくりができたらいいなと思います。
心地よい人間関係と、心地よい不便さの街を作れないものでしょうか。
街の人達みんなが、そういう心を持って、企業もそれに寄り添った商売をしてくれる街になればいいのにな…と思いました。
そして、ふと思い出しました。そのような街づくりをビジュアルにしたのが、養老孟司さんと宮崎駿さんの対談集、「虫眼とアニ眼」(新潮文庫)の巻頭の、あの街の絵なのだと。
]]>
皆さんのお宅ではいかがですか?
ご飯を作らないといけなくて大変ですか?
どこかに連れて行かないといけないから大変ですか?
家事のお手伝いをしてくれるから、助かりますか?
そもそも、何故夏休みがあるのでしょうか?
学校教育法に定められてはいるのですが、どうも、なぜそうなったかは定かではないようです。明治14年頃から夏休みはあったようで…
では私たちで、もう一度夏休みを、どのように過ごすといいのかを考えてみたいと思います。
もともとその昔は、農繁期休みとかいうのもあって、地域で忙しい田植えの時期などは、学校もお休みになって、子ども達もお手伝いするというものだったようです。
でも今はそんな必要もないようですね。
全然違う話題なのですが…最近安倍首相などが教育を…教育を…と言うのですが、それは、学校教育を指しているようです。
しかし、これは世の中の考えを誤らせると思うのです。学校教育以外にも、地域での教育、社会教育といったものもあると思うのです。
ですから、学校教育の時は、教育と省略せずに、学校教育と言ってほしいと思います。
さてそこで、夏休みなどの長期休暇の時は、地域教育とか社会教育の時間と考えてはいかがでしょうか?
学校の時にはできない教育をする期間とするのです。
どんな教育があるのでしょうか?
地域では、お祭りとかそのお囃子に参加するのも、大切な地域教育でしょう。
もちろん農作業の手伝いなども大切な教育になるでしょう。
スポーツに打ち込むのもよいでしょう。ただ、このスポーツで怖いのは、勝つためのスポーツになってしまわないでほしいと思います。スポーツを通して、友情や礼儀などを身に着けてほしいですね。
自然の中に出かけて行って、生き物の生き死にや、命の大切さなどを学ぶのもよいでしょう。
この命の大切さなどは、お寺や神社などに頑張ってもらうのもいいのではないかと思います。
このように長い休みも、家庭にとどまるのではなく、地域社会などに出ていって、学校では学ぶことができない、社会のルールや生きていく上で大切な価値観を身に着ける期間と思ってはいかがでしょうか。
ですから、夏休みではなくて、サマーキャンプシーズンとかにしてはいかがでしょう?
日本語なら、夏体験月間…学校を中心に考えるので夏休みになるので、学校外の体験する月間として「夏体験月間」です。
いかがでしょう?
お金がかかりますか?
お金のかからない方法を私たちも考えていかなくてはいけませんね。
]]>ただし、2019年7月14日に加筆修正しました。
新しい一年。
新しい時代の幕開けですね。
私は昭和生まれです。
そして、大変申し訳ないのですが、若い頃には明治生まれの人に会うと、ひと昔前の人という感じを持っていました。
今、昭和生まれの私を新しい時代の人々はひと昔の前の人と感じるのでしょうね。
もうひとつ。
私は昭和の後半から平成にかけて、自然体験の世界で、結構活躍してきました。頑張ってきました。
そして今、平成の終わりから、私の周りにいる若者たちは、この時代に入って、大活躍してくれます。
間違いなく!
それを今、『走林社中』という私の主宰する私塾で、ひしひしと感じています。
そんな次の時代を作っていく若い人たちを、私は激励したいと思います。
4月、
新しい環境に入り、慣れない生活を始めるでしょう。
しかし、はじめの仕事は、自分が思い描いたものとは程遠い仕事のことがしばしばあります。
こんなことするためにこの仕事に就いたのではない。と思った時、『私はなぜこの職についたのか』という初心を思い出してみてください。
そして、今、目の前の思いとは沿わないと思うような仕事の中に、初心の思いに役に立つものがあることに気づいてください。
必ずあります。
それに気づき、将来のために身に着けていくことを心がけることです。
そうすれば、どんな仕事でも、無駄なことはありません。
信じてください。
そして、ひとつひとつ、そんな仕事を積み重ねていってください。
新しい時代、10年ぐらいたった時に振り返ると、その積み重ねによって、時代を作る仕事ができているものだと、私は思うのです。
]]>それは小学校の前…どう考えても、信号機が必要なところではないのですが…子どもに信号のルールを教えるために、あえて設置しているのだそうです。
信号のルールは、赤は止まれ、青は進め、黄色は安全に停止位置で停止できない場合はそのまま進むことができる…です。
では、横断歩道はどうでしょう?
横断歩道
日本自動車連盟(JAF)のホームページで『信号機のない横断歩道での交通ルールとは?』を読んでみました。
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ドライバーは、常に歩行者が安全に横断歩道を渡れるように保護しなければなりません。道路交通法第38条第六節の二「横断歩行者等の保護のための通行方法」には、?歩行者の有無を確認できなければ、横断歩道の停止位置で止まれるような速度で進行する。?横断しようとしている、あるいは横断中の歩行者や自転車がいるときは必ず一時停止をする。
?横断歩道内およびその手前30mは追い越しや追い抜きが禁止。などが規定され、横断歩道を渡ろうとする歩行者がいる場合、ドライバーは横断歩道の直前でクルマを一時停止させ、通行を妨げないよう義務付けています。横断歩道を渡るのに時間がかかってしまう高齢者や幼い子供も、もちろん例外ではありません。違反者には反則金や違反点数が科せられます。
http://qa.jaf.or.jp/accident/rule/04.htm
------------------
すなわち、ドライバーは、横断歩道を待っている人がいる時は、必ず止まらないといけないのです。
あなたは止まっていますか?
同じくJAFの調査によると、この横断歩道のルールを守られていないようです。
この一時停止率ですが、一番止まってくれる県は長野県だそうです。
https://todo-ran.com/t/kiji/23579
この順位上位の件は、同じようにボランティアの活動参加率も高いそうです。
すなわち、人のために何かしようという気持ちの人が多いということ…らしいです。
仕事で長野に行くことも多いのですが、意識してみると確かに皆さん、横断歩道で人が待っていると止まるように思います。
カメラによるスピード違反の取り締まりも大切ですが、横断歩道の停止義務を果たさないことを取り締まることも大切なのではないでしょうか?
横断歩道の停止義務違反は、明確に止まらなかったかどうかですから、違反も明確ですよね。
なんて、過激な意見ですかね…
それよりも何よりも、私のこのコラムをお読みいただいた方々が、やさしい気持ちになっていただき、横断歩道を待っている人がいたら、止まるようにしていただけたらいいかなと思います。
気持ちいいですよ。ほっこりしますよ。
でも、歩行者になった時は、横断歩道で車が止まってくれたら、渡る時、当たり前だという顔して渡らないで、ちょっと運転手さんに微笑んで軽く会釈しましょうね。そうすると、みんなが幸せになりますから。
]]>
ただし、2019年7月8日に加筆修正しました。
年が明けて、なぜだかわからないのですが、色々なところから、自然体験活動や、自然学校を自分のところを何とかしたいというようなお話がポコポコ舞い込んで来ています。
お話しくださる方は、自然学校や、自然体験を知っていて、私にお問い合わせくださるわけではないのです。
ただ、自分の地域や街を何とかしたい。そんな時私に知り合ったので少し話してみたら、『これだ』と思ったと言うことです。
しかし、私は慎重になります。
自然学校をつくれば地域が活気づくでしょうか。
自然体験を導入すれば人が集まる事業になるでしょうか。
森のようちえんをつくれば地域に若い人たちが移住してくるのでしょうか。
グランピングのオートキャンプ場をつくれば、人が来るのでしょうか。
『きっとそうなる。』何となくそんな雰囲気を感じます。しかし、そんな簡単なことではありません。
単体のプログラムや事業を推し進めても、その周辺の団体や事業所、地域の活動との連動、相互作用が大切なのです。
その地域にあるものを生かすために、あるものとあるものを結ぶために必要な事業を生み出し、点を線にし、面にしていく。面になることで、遠くからでも見えるようになる。
そのように見えやすくなったものを、もっと多くの人に見てもらえる仕掛けを作る。
それが、いま必要なことなのではないでしょうか?
今まで、多くのコンサルタント会社が、ひとつ目玉事業を誘致したりして、お金を使って結果地域は疲弊してしまった例をたくさん見てきました。
自然体験活動や、自然学校が、その目玉になってはいけないととても感じています。
そうならないためには、その自然学校、自然体験活動を根付かせ、その役割を全うする人材が大切なのです。
地域の人材のブラッシュアップと、東京から飛び込む若者人材の両方が必要なのです。
今年に入って、色々な方に、お話をして、プランを書けば書くほど、その人材の重要性を感じます。
]]>私も、お邪魔してみました。
そこでの体験プログラムに興味があったのです。
豆皿に金箔を張り付ける、箔押し体験です。
私たちが行っている自然体験とはちょっと趣が違うようにも思いますが、実は、木の皿に漆を塗り、金箔を張り付け又漆を塗って作る豆皿は、自然と調和した工芸品の製作体験で、立派な自然体験なのだと思いました。
そして、もう一つ感激したのが、指導してくれる方です。
漆塗りというと、割と高齢のおじいさんを想像していました。
ところが、なんと若い女性ではありませんか。そして、広島からわざわざ、指導に来てくれたというのです。ちょっとびっくりしてしまいました。
吉田さんという女性です。彼女のFacebookのURLを乗せておきますのでぜひ、ご覧ください。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100034460562537
そして、私がその体験プログラムで作った豆皿が以下の写真です。
いかがですか。指導がよかったのか、私のセンスか…ちょっといい出来だと思っています。
自然教室とか移動教室という、学校が青少年教育施設に行って、2泊3日とか3泊4日泊まり、自然体験活動をするプログラムがあります。
調査によると小学校5年生が、ほぼ皆さん行かれているようです。
その教室では、みんなが登山や野外炊飯、キャンプファイヤーやオリエンテーリングといった活動を行います。
しかし長野県の子どもなら、このような、木工とか、漆工芸の体験をするのもよいのではないでしょうか。
岐阜なら、白川郷の茅葺体験とか、新潟なら米作りとか、北海道なら酪農体験とか、そんな地域ごとに、地域の産業や、工芸品を子どもたちに伝える活動を行ってもいいのではないでしょうか。
そのために、各地域や都道府県でみんなで子どもの自然体験はどのようなプログラムをするといいかを、研究するべきなのではないでしょうか?
ぼちぼち、全国一律の紋切り型の教育は卒業する時期のように思います。でないと、地域の産業はどんどんすたれていくのではないでしょうか。
漆器まつりでの箔押し体験も、十分に『自然体験』といえるような気がしました。
]]>ただし、2019年6月19日に加筆修正しました。
大学の授業を数校お引受けしています。
そのひとつの大学の実習で、青少年教育施設に来ています。
授業は野外教育論というもので、学校の先生になる学生さん達にむけての授業です。
ですが、半分ぐらいしか教員になろうとは思っていないようです。
そうは言っても、多くの学生は、教員となり、いつか子ども達を連れて、このような施設に来ることになるのです。
この実習では、自分たちで考えたプログラムをお互いに指導し、体験します。
今、学生さん達はその準備をしています。
そして明日は、実際にお互いに指導し、それを体験するのです。
今、準備する姿は、とても楽しそうです。
時間はたっぷり与えてあります。
その時間の中で、お互いにアイデアを出し合い、ダメ出しをし、リハーサルをして、検討を積み重ねています。
いい先生になるに違いないと感じています。
しかし、実際に先生になったとき、このように楽しげに、準備をして、授業を行うことができるでしょうか?
今は、それを夢見て、自分の考えたことを精一杯指導してほしいと思います。
現実は、なかなか厳しいものがあろうことは間違いないのですが…。
実際の教員の職場はと言えば、
あらゆる公文書の作成に振り回され、
保護者の言葉に、神経をすり減らし、
もちろん、目の前の子どもの行動に、翻弄されることも度々でしょう。
そんな中でも、くじけずに、本当に楽しんで、学校で先生として、教育者として生きてくれることを願わずにいられません。
その時に支えとなるような、血湧き肉躍る体験をさせておいてあげたいと思います。
それが、未来の子どもたちの幸せになるのでしょうから。
そして私たちは、先生たちに過度の責任や役割を持たせないようにしましょう。
私たち自身も、家庭で、地域社会で、子どもの教育についての責任や役割を分担していることを忘れてはいけないと思うのです。
]]>どこまで暑くなるのでしょうか?
先日も書きました通り、どうなっても、この地球の上で暮らすしかないのですね。
そして、お金持ちがエアコンを効かせた快適さを得るとき、その外で、エアコンのない暮らしを強いられている人たちが、その排気熱で、より暑い暮らしを強いられるということも。
そんな中、都会では、スーパークールビズなる服装が推奨されています。
暑さの中でも、より快適に過ごせるように、ラフな服装を推奨していることです。
ネットで調べてみました。
どうしたらいいのでしょうね〜
沖縄の若い人と会議をすることがありました。
きちんとした、かりゆしを着て、とても涼しげでさわやかでした。
同じ若い人でも、東京の若い人と会議をしました。
ズボンをだらしなくはき、襟首がだらしなく伸びたTシャツでした。
ちょっと汚らしい感じでした。
最近、スーパークールビズと、だらしない格好の境目がよくわからなくなってきているような気がするのです。
特に男性のファッションで、だらしない人が増えているのに思えてなりません。
だらしのない服装と、Tシャツやポロシャツなどラフな格好で仕事に臨むというのは、違うと思うのです。
ましてや、髪が汚れているとか、靴を履かずに素足にビーチサンダルで、泥だらけとかいうのは論外のように思います。
人に会う時、相手の人が不快に思わない服装をこの暑い中で考えなくてはいけないというのは難しいことだと思います。
今までは何も考えずにネクタイを締めて、スーツを着ていればよかった。
それが、なくなり、自分で考えて、相手のことを思って、自分の服装を決めていかなくてはならなくなったのです。
そんな中、若い男性は、考えることをやめ、ただ自分が楽な服装をし始めているのではないかと思うことが最近たびたびあります。
部屋着のまま出てきたのではないのか…という感じの服装だったりもします。
それは、自分のことを考えるだけで、相手のことを考えない姿勢が服装に反映されてしまったのではないでしょうか。
相手のことを思いやる、相手の気持ちを想像する、そして服装も決める、整えるということを考えられなくてはいけないのではないでしょうか?
私たちはもう一段、ものをよく考えることができる大人に成長しなくてはいけなくなっていますね。
]]>ただし、2019年5月27日に加筆修正しました。( )内は、加筆部分。
八ヶ岳の我が家で、昨年末に大掃除をしたときのことです。
ふと気が付いたのですが、こちらの家で掃除機を全然使っていないのです。
国立赤城青少年交流の家での仕事を終え、前橋の宿舎を引き払ってこちらに来た時に、当然掃除機は持ってきました。
そう思って、納戸をひっくり返したら、なんとなく古びた感じの掃除機が出てきました。ちゃんと動きました。
でも、結局その掃除機は再び納戸にしまってしまいました。
今朝、掃除をしたとき、そのことを思い出しました。
私の掃除の手順に、掃除機はすっかりなくなっています。
ほうきで掃いてきて、窓際にまとめ、大きなごみを拾った後、掃き出し窓から、ベランダにごみを掃き出してしまいます。
課題は、部屋の中が温かいと、窓を開けたとたん外から風が吹き込んで、ホコリを掃きだすのにひと苦労ということです。
しかし、この掃除、結構楽しいですよ。
ほうきは2本使います。
階段を掃くときと、部屋や廊下を掃くときのものです。
階段の隅を掃くときは、いろいろ工夫をしています。もちろん掃除機で吸う方が早いのかもしれません。しかし、その隅のごみを掃き出すちょっとしたコツをつかんで、掃き出すことができた時は結構嬉しいものです。
そして、ゴミがまとまってきたとき、こんなにあったのだと、感心してしまうとともに、変な達成感があります。
そして、電気を使わない、省エネ生活だなと、思う充実感も味わっています。
家の作りは、地域の伝統的形です。だからできることかもしれません。
しかし、川崎のマンションで、これはとてもできない生活スタイルです。なぜなら、掃き出し窓がないのです。ベランダへの窓は、一段高くなっています。それよりなにより9階のマンションのベランダにゴミを掃きだせば、ご近所迷惑ですね。
省エネの暮らしができる家づくりや、暮らし方を考える建築家が生まれてきてくれないかなと思いました。でないと、やはり省エネの暮らしなんて、絵に描いた餅なのかもしれないなと思いました。
]]>
八ヶ岳の我が家でも気温が35度になった日がありました。
夏でもなかなか35度になることはない地域なのですよ。それがいきなり、5月末で35度ですから、ちょっとびっくりです。
テレビからは、水分補給を充分にしましょうとか、無理をしないで、部屋でエアコンを使いましょうといった呼びかけをニュースのたびに聞きました。
しかし毎年、こんな高温の日が、5月とか4月からくるようになったら、どうなってしまうのでしょう。
異常気象、異常気象といっていますが、そんな気象が毎年来たら、それは異常気象ではなくて、気象がそのように変化したということなのではないでしょうか?
日本は5月から35度を示すような、熱帯の国に変わるのではないでしょうか?
そうなったなら、日中は外で仕事などできないですね。
サラリーマンはみんな、ビルの中でエアコンをガンガン効かせて仕事をするのでしょうね。
するとビルの外は、エアコンの排気熱が暑さに拍車をかけて、40度とか45度とかになるのでしょうね。
そんな中で働かざるを得ない、配達の仕事とか、掃除の仕事とかをする人はいったいどうなってしまうのでしょう。
地方で農業とか林業をする人は、いったいどうなってしまうのでしょう。
今の子どもは、日中の暑い時は、エアコンの効いた部屋の中で過ごして育ちます。
そうなると、今の大人よりも、もっと暑さへの耐性のない大人に育つのではないでしょうか。
暑さに弱い大人が育ち、日本はどんどん暑くなっていく。
そうなると、どんどん外で働くことができない人ばかりになってしまいます。
農業や、林業や漁業といった仕事ができる人はもっと減ってしまうことになります。
暑い時は、海外のようにシエスタ…昼寝をして、休憩をする。
でも、その休憩も、エアコンの効いた部屋の中ではなく、日影の風通しの良いところで過ごすのです。
そして、朝とか夕方に頑張って仕事や勉強をするようにしてはいかがでしょう。
今の日本は、そんな風に暮らし方を変えなくてはいけないほど、天候が変化してきているのではないでしょうか。
今までの働き方を無理やり続けるために、エネルギーを使って、エアコンを効かせて、働くといったスタイルを続けるのは不自然なのではないでしょうか。どこかで無理が出てしまうのではないでしょうか。
もっと自然とともに、変化できる、変化することを良しとする、自然と共に生きる生き方を私たちは考えた方がいいような気がします。
今はそんな生き方をする人を怠け者と呼ぶかもしれません。しかし、最後に自然と共に生きることの方が知恵のある人となるのではないでしょうか?
でないと、どこかで、私たちは地球の上で生きることができない生き物になってしまう気がするのです。
]]>
ただし、2019年5月6日に加筆修正しました。( )内は、加筆部分。
あけましておめでとうございます。
(少し時季外れですが、令和元年ということで、新しい時代の初め、もう一度一年の抱負を確認するということもいいかな…と掲載を決意しました。)
皆さんはどのような新年をお迎えでしょうか?
私はと申しますと、八ヶ岳の我が家で、ゆっくりとしたお正月を過ごしています。
そんな中、以前は恩師の方々などにお正月のあいさつに行っていた自分のところに、お正月のあいさつに人が来る年齢になりました。
とはいっても、八ヶ岳はいかにも遠いです。
しかし、世の中は変わったなと思うのですが、WEB会議のシステムで、何人かの方々が、あいさつに来てくれました。
(でも、やはり、直接来てくれる方がうれしいですけどね。)
さてそんな中で、今年一年の抱負を考えました。
今年、私は「暇な一年」にしたいと考えています。
暇だからといって、何もしないということではありません。
1、若い人たちを信頼して、仕事を任せていくということです。
2、そのために、一番大切にする仕事は、後輩たちの育成です。走林社中に、より力を入れます。
3、暇になった時間には、いろいろなことを考え、文章を書き、より多くの人たちに自然体験のことを伝えていくように頑張ります。
そんな風に『仕事をしない』ということは、収入は減ってしまうかもしれません。
国立赤城青少年交流の家で仕事をしていた時の収入に比べると、きっと約3分の1くらいになっていると思います。
しかし、それでも、なんとかかんとかやっていけるものです。
それが、地方に住むということなのではないでしょうか?
決して我慢をしたり、ひもじい暮らしをするのではなく、無駄なお金を使わないということです。
地方での暮らしで、収入は減るけれど、暇な時間を持ち、心豊かに、快適に暮らしていくことができるということを体現したいとも思います。
]]>
そして、体を動かさなかったから、太ったのです。
当たり前のことですね。焦っています。
要は食べる量と、その食べた分、動くことのバランスがあっていないから太ったのですね。
そんなバランスが整わないと、変調をきたすことが他にもあるように思います。
例えば、今の世の中、経済偏重のような気がします。
経済と文化は、どちらも大切ではないでしょうか?
経済を優先して、大切な文化的な建物を壊してしまったり、
文化を優先して、新しいものを拒んでしまったり。
それをどのように調整していくか、いつも悩み、判断していかないといけないのでしょう。
私たちの身近なことでいえば、
実体験と疑似体験もそのバランスの中にあるように思います。
よくある話で、子どもが満天の星空を見て「プラネタリウムみたいだ」と叫ぶのだそうです。
どちらが本物か、分からなくなってしまっていますね。
しかし、実体験というのは、五感すべてを刺激してきます。
草の匂い。木々のれる音や友達の声。寒いからといって、両手で包むように持ちながら飲んだココアの味。首が痛くなるほど上を向いて見上げて見た、満天の星空…などが実体験なのでしょう。
プラネタリウムが悪いということではありません。
星座のことをよく理解し、興味を持つには、とてもいいと思います。
しかし、両方を体験することが大切なのだと思います。
安全と危険も同じようなことが言えるでしょう。
何もかもが安全でいいのでしょうか。
けがをしたことがないまま大人になるなどということはないでしょうが、もし、そんな大人が生まれたなら、どうでしょうか?
親になれば、子どものけがを手当てしなくてはいけないこともあるでしょう。そんな時、自分のけがの経験が役に立つのではないでしょうか?
けがの痛みを知れば、人を傷つけることは怖くてできないのではないでしょうか?
子どもの時に、転んで膝小僧をすりむいて泣いた思い出ぐらいはあったほうがいいように思うのです。それすら危険なことと排除すると、バランスの悪い体験になってしまうのではないでしょうか。
そのようなバランス…国際自然大学校では、アウトフィッティングといっています。
バランスという言葉を「かかわりの中で…前向きに生きる」という言葉に変えて、言っているように思います。
バランスを考えるだけではなく、どうするかを判断するということが、前向きに生きるということなのですね。
私たちは、いつもバランスを考えて、そして判断しなくてはいけないのです。
判断を誰かに委ねてはいけないのではないでしょうか?
自分で判断し、そうするかをひとつひとつ決めていくのです。
お菓子を食べるか食べないか、体を動かすか動かさないか。自分で判断し決めて、行動していなくてはいけないのでしょう。
文化を選ぶか、経済を選ぶかも、自分の考えは決めておかなくてはいけないのでしょう。
その決めたことを表現する機会がきっとくるでしょうから。
それは、選挙だったり、署名活動だったりするのかもしれません。
これからも、色々なバランスを考えて、判断して行動していかなくてはいけないのですね。
]]>
ただし、2019年4月16日に加筆修正しました。
八ヶ岳で暮らしていると、川崎で暮らすよりも、ゴミの量はずっと少ないです。
でも、生ゴミはたくさん出ます。
畑から採ってきた野菜の切れ端や皮です。
その生ごみはコンポストに捨てます。
このコンポスト、結構、長持ちします。もうかれこれ1年近く同じ場所で、生ゴミを捨てていますが、まだまだ捨てることができます。
一方川崎でも、バケツ型コンポストを使っています。
先日、そのバケツがいっぱいになったので、八ヶ岳に運び込んでコンポストに移したのですが、なぜか、ものすごく臭いのです。
コンポストに捨てていた生ゴミはそんな臭くはなかったのですが、バケツコンポストはすごい匂いでした。
コンポストは、地面に穴を掘りますのでどんどん土になっていくからでしょうか?
都会で、生ゴミを堆肥化するのは難しいことだなと、思いました。
以前こんな新聞記事がありました。
私たちは、臭くなるごみをビニール袋に入れ、ごみ集積場に出します。
そこから先は、私たちは、どうなるか知りません。
生ごみはできるだけ水を切った方が軽くなります。水を切って重さを軽減することで、収集する人はどれだけ楽でしょうか。
そして、乾燥していた方が、焼却するときのエネルギーも軽減することができるのです。
しかし、そのごみの軽減化を実践している人がどれだけいるでしょうか?
ごみを集める人は大変な苦労をして、ごみを集めてくれています。
しかし、ごみのその先のことは、収集をする人もあまり詳しくは知らないでしょう。
焼却され、その灰は最終処分場に運ばれ埋め立てられるのでしょう。
生ごみを、コンポストに入れておくと、そこに虫が発生して、生ごみを土に返していく過程を知ることができます。
都会では、においが発生したりすると、難しいことが多いかもしれません。
しかし、できるだけ、自分自身の暮らしがちゃんと見える生活をした方がいいのではないでしょうか?
]]>
ニュースにもなっていたので、気づかれた方も多いでしょう。
感激しました。
是非、お読みください。
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html
私が感激したのは、
あなたたちは努力が報われてきた。それは、周りの環境があなたの努力を認め後押ししてくれたからだということと、その努力が報われない人たちがいるということを知ってほしい。
そして、その報われてきた頑張りを自分のために使うのではなく、報われない人たちを助けるために使ってほしいというメッセージでした。
感激しました。
今、最高学府である大学で学ぶ人たちの、すべてに聞いてほしいと思うスピーチですね。
いえ、日本の教育に携わる人たち、リーダーと呼ばれる人、指導者と呼ばれる人たちに、聞いてほしいメッセージだと思います。
今、自分と違う人を貶め、それも、同じ人たちで徒党を組んで貶めることのなんと多いことでしょうか。子どもの世界で『いじめ』といわれるものがその卑近な例でしょう。
時として、政党と呼ばれるものも、そんな様相を垣間見るような気がすることがあります。
マスコミにも気を付けてもらいたいと思います。
私たちは、そんな報われない子どもたちの努力を、頑張りの背中を押し、励まし続け、やり遂げたことを評価してあげる。それが、人と違うことへの頑張りでもです。そして、その努力が、周囲の人たちが貶めようとするときには、身をもって立ちはだかり、評価し続けてあげられる教育者でいたいと思います。
私たちのしている、自然体験活動というのは、そのように、ありとあらゆる興味を肯定してあげることができる場だと思っています。
そしてその興味に向かう時間を取ってあげる場でありたいとも思います。
学校が実施する自然教室や移動教室は、この興味を持つことや、その興味に向かう時間を取ることが難しい状況です。
自然の中での体験教室でありながら、授業の一環としての時間割を先生は組もうとしてしまうからです。
他方、私たちの自然学校は、そのような縛りはないはずです。
もっと子どもの興味を、十分に受け入れ、時間を十分に用意してあげられるはずです。
しかしそこには経済との板挟みがあります。だからといって、志を曲げたくはありません。
数多くの子どもを集め、時間割通りに進むことが『いい事業』ではなく、子どもの興味を受け入れ、時間をとれる程度の人数での開催を考えなくてはいけないでしょう。
それは、金額が高くなるということでもあります。
しかし、本当にそのような体験をさせてあげなくてはいけない子どもたちは、高額の参加費が払えない子どもたちに多くいるように思います。
私たちは、報われない子どもたちに、もっと真剣に、寄り添うことに立ち向かわなくてはいけないとつくづく思うのです。
その方法を、もっと、いろいろな方々と話し合い、チャレンジしていかなくてはいけない時が来ていると思うのです。
是非皆さん、知恵をお貸しください。
]]>
ただし、2019年4月7日に加筆修正しました。
八ヶ岳での暮らしのリズムは、朝5時に起きて、朝ご飯を食べ、6時25分から始まるテレビ体操をして、散歩に出かけます。
しかし、これは夏の暮らし。
最近は、5時に目を覚ましても真っ暗になってしまいました。
9月は夏の日の出から冬の日の出に移行する月という感じです。
というわけで、10月からは6時に起きる冬の生活リズムになります。
6時に起きると、うがいをしたりして、25分のテレビ体操から1日が始まります。
そして朝食です。
寒くもなりますから、朝の散歩も少し遅くなった方がいいわけです。
これが、自然のリズムで暮らす、自然なサマータイムなのでしょうね。
夏、早く起きた分、早く寝るかというと、そうでもありません。
そうすると、長く起きているということになりますが、昼間暑いので、昼寝の時間が長くなります。スペインのシエスタみたいなものでしょうか?
昨今の夏の日差しは、午後の2時ごろはとても外で何かしようとは思えないほど強い日差しです。
すなわち、冬よりも1時間早く起きる分、昼間1時間余分にお休みするのです。
ですから、夜は同じ時間に寝ればいいのです。
仕事終わりの時間も同じです。
夏は、まだ明るいうちに仕事を終えることになりますが、暑さの中での仕事をしているときは、それぐらいに上がった方が、安全です。あまり頑張ると、熱中症の危険があります。
自然のリズムに沿った暮らし方をしていると、自然にサマータイムになるのですね。
大都会では、蛍光灯とエアコンの中で暮らしているので、サマータイムの必要はないのでしょう。
そんな大都会で、太陽の熱と闘わなくてはいけないスポーツの祭典「オリンピック」を行うのですから大変ですね。
大都会の生活者が時間を変えるのではなく、オリンピックのスタート時間を早めればいいことだと思うのですよね?
よくわからないサマータイム導入議論です。
オリンピックを見たい人は早起きすればいいのでしょう?
]]>
私は小学校の2年生の時に、ボーイスカウトに入隊しました。当時は、カブスカウトです。
そしてボーイスカウト活動を続けた結果、野外活動のプロとなってしまいました。
あまり記憶が定かではないのですが、友達が着る、カブスカウトの青いユニフォームにあこがれて入ったのだと思います。その友達の家は、街の本屋さん。裏に、その友人の祖父母が豆腐屋をやっていて、朝、彼を迎えに行くと、油揚げにお醤油をかけてもらって、食べたように思います。
そして、その数軒隣の洋品屋の息子もカブスカウトでした。
その頃の私の家は、近くのアパート住まいでした。
その友達の一人に、今考えると、発達障害だったのだろうなという友達がいました。
電車の音まねがすごくうまかったのです。その音まねをしながら、電車の絵をかいていました。すごい精緻な絵でした。
でも、ロープワークなどはなかなか覚えられなかったと思います。
あるとき、宿泊をした時、何を怒ったのか、窓から、みんなのリュックサックを投げ落としたという思い出もあります。
でも、何となく、みんなちゃんと友達付き合いをしていたし、電車に乗った時など彼の解説を尊敬のまなざしで聞いていたように思います。
こんな友達も、当時は何となくちゃんと受け入れて一緒に活動していたのですね。
リーダーの方は苦労されていたのかもしれませんが、私たちは何も考えず、屈託なく楽しんでいました。
どうして、そんな風にみんなで仲良くできていたのか。
いろいろな生活階層の人が町の中で、みんな一緒に暮らしていたのですね。
そしてそこに、境界線はありませんでしたし、発達障害と健常との境界もなかったように思います。みんな子どもだったのですね。
本当にその境目はないでしょう。どちらなのだろうという子どもも最近はたくさんいるように思います。(それは私に知識がついたからかもしれません)
もし境界線を引いたとしても、きっとその境界線上にも子どもはいるのです。だから境界線は引けないのです。
今、発達障害といわれる人が、会社の中でうまくやっていけないという話を聞きます。
そうでない、少し他の人とよりはおっとりしているかなという程度の人も、暮らしづらいという話も聞きます。
それは、みんなを均質化して、同じ質の人が同じ成果を上げていくという街づくりの中にあるからなのではないでしょうか。そんな街づくりに必要な人間を教育は育てようとするから、子どもも同じ質に育てていこうという風になってしまっているのではないでしょうか。
その同質のグループの中にいない子は、発達障害といわれたり、いじめの対象になったりするのではないでしょうか。
今、地方に暮らして思うのは、私が子どもだった頃と同じように、大きな家の隣には小さな平屋の家もあります。農家もいれば、工場では宅人も、商売やの人もいます。しかしその人たちはみな同じようにお付き合いをして、暮らしを支えあっています。
発達障害の子どもたちが暮らしやすい街づくりを考えないと、そこで暮らす人づくりの教育もうまくいかないのかもしれません。
いいえ、教育が変われば、そこで育てられた人が街を変えていくということになるのかもしれません。
鶏が先か、卵が先かの理論になってしまいますね。
どちらも一緒にするしかないのかもしれません。
教育が、教育の世界の中で子どもを育てるのではなく、地域の中で、街の中で、育てながら、その子どもを育てるための街づくりを大人が考えていかなくてはいけない時代なのかもしれません。現に「社会全体での子育て」などといわれます。
思うのは、地域で子どもを育てるということは、子どもに大人の『今』を押し付けるのではなく、子どもが育つために、大人が、街が、いかに沿うて行ったらいいか、変わるといいかを考えることなのだと思っています。
]]>ただし、2019年3月31日に加筆修正しました。
この夏、私は八ヶ岳の家で過ごせる時間が多かったです。
60歳を過ぎてリタイアするというのは、現代の世の中的に見れば『贅沢』ということになるのでしょうか?
皆さんは、いつまで働く予定ですか?
現政権は高齢者の定義を変えて、70歳まで働く仕組みを作ろうとしているようです。
そして多くの人々は、食べていくためには働かなくてはならないから、それでいいじゃないか、と思うのでしょうか?
食べていくため?
この食べていくためというのは、どういうことなのでしょうか?
食べるものを、手に入れるためにはお金がかかる。
着る物を手に入れるにもお金がかかる。
住むところを手に入れるにもお金がかかる。
すなわち、生きていくためには、お金を稼がなくてはいけないということですね。
しかし、それらのものを手に入れるためには、本当にお金がかかるのでしょうか?
そのかかるお金を少し減らして、自分で作り出せるのではないでしょうか?
スイカを買うと、1,000円くらいでしょうか。スイカの種は一袋300円で何十粒もあります。一粒のスイカの種で何個ものスイカが取れます。まあ、育たない種もあるので、1個300円と考えましょう。3分の1ですね。
もっと言うと、私の家ではこの夏スイカ作らなかったのですが、たくさん採れたジャガイモをお裾分けして、ご近所から、たくさんのスイカを頂戴しました。
先日、作業用のズボンの膝が破けました。あて布をして、堂々と履いています。
このズボンの寿命は、きっと倍ほども伸びるでしょう。すなわち、かかるお金は2分の1です。
お金で買うものを、自分でなんとかすることができるようになると、お金がかからなくて、楽しい生活ができるように思います。
子どものうちに、こうして、いろいろと自分でできる力を身につけさせて上げられたらいいなと思っています。それが生きる力なのではないでしょうか。
『生きる力とは、何にもかもを、お金に頼らなくても生きていける人になること』と定義しても面白いかもしれませんね。
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皆さんの所では、新入生や、新人社員という、初々しい方々はいらっしゃいますでしょうか?
小学一年生が、上級生たちと、通学路を大きなランドセルを背負って歩いていきます。
地方ですと、スクールバスに乗っていきます。
その姿は、ほほえましいですが、当の本人たちにとっては、必死なのでしょうね。
必死にお兄さんお姉さんの後をついて行くのです。
そんな必死さの中で、学校までの道のりは、遠く感じられるものです。
しかし、その道も、毎日毎日歩いていると、とっても近く感じてしまうようになるのです。
仕事も同じでしょうね。
通勤は、はじめは遠く感じられるものです。
しかし、慣れてくれば、近く感じるようになります。
物理的にも近くなることもあるでしょう。
電車だと、何時の電車が一番乗り継ぎがいいとか、どの車両に乗ると乗り換えが楽だとか。
もしかすると、何時の何両目の何番ドアに乗ると、素敵な人が乗っているという理由もあるかもしれませんね。
車だと、この道は混むから、ここで曲がると早く行ける!ということもあるでしょう。
そんな風にして、毎日毎日同じことを繰り返して、少しずつ慣れていくことで、気持ち的に職場が近くなっていくのですね。
仕事の進め方も同じではないでしょうか?
初めは、言われたことが「え、それは何のこと?」と、わからなかったりもするでしょう。
こんな雑用をするために入ったんじゃない…と思うことも。
仕事の到着定点がわからなくて、今歩いている道(仕事)が、遠く感じたり、とっても遠回りしているような感じがしたりもするでしょう。
しかし、そんなことはないのですよ。
慣れていないから、遠いように感じているのです。
上級生(先輩や、ご家族の皆さん)は、新入生(新着職員)が、そんな不安や、心配をしていることをわかってあげなくてはいけません。
ここは、この道は危ないから、少し時間がかかっても、横断歩道まで回って渡るんだよ。とか、大きな声で、あいさつをすると、おじさんやおばさんもすぐに覚えてくれるからね。とか、いろいろちゃんと説明してあげることも大切なのですね。
面倒くさいと思っても、毎年この時期は、一年生がいることをちゃんと思い出して、毎年、同じことを説明しないといけないことを覚えておかなくてはいけません。
そして、ちゃんと説明してあげましょう。
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ただし、2019年3月20日に加筆修正しました。( )内は加筆です。
先日、ちょっとした用事で、江ノ島の海岸に行ってきました。
何年ぶり? いいや、十何年ぶりかもしれません。
夏の江の島海岸…特に今年(2018年)の夏は、いや〜暑かったです。
海岸でお仕事をされている方のお話だと、今年は暑すぎて人出が少ないということです。なるほど、そうなんだ。…とはいっても、私の目から見れば、結構な人出でした。
そして、その中でもやっぱり子どもは元気だな〜と感じました。
走り回り、砂まみれになり、寄せては返す波を飛び越え、戯れ、お父さんお母さんがうっとうしくなるくらいジャレついています。
そんな子どもたちを、おもわずほほえましく見てしまうのでした。
何も考えることなく、ただただ、心の赴くままに遊びまわる子ども。
きっと、ああやって駆け回っているだけで幸せなんだろうな。
と、思いつつ川崎のマンションに帰ってきて、我が家の9階のベランダから下の公園を見ると、人っ子ひとりいません。
そりゃそうですね。こう暑いと、子どもを外で遊ばせるのも躊躇します。
しかし、部屋の中ばかりにいて、室内でばかり遊んでいて、子どもは健全に育つのでしょうか?
そう思うと、そこそこ暑いけれど、水辺だとか、高原だとかで、遊ぶことが大切になるのかなと思います。
夏休みは、子ども達がこぞって、猛暑疎開などと言われ、海浜や高原に預けられる時代が来るのかもしれません。
そんな時、受け入れるのはいったいどんなところなのでしょう。
そしてそこでは、どんなことをして過ごすのでしょうか?
私たちは、そんな将来を真剣に考えておかないといけないのかもしれません。
今のキャンプが今のままでいいのか…社会の仕組みはずいぶん変わってきて、気候も変わってきている中で、ずっと続いているから正しいとは言えなくなってくるのかもしれません。
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以前、病院のエスカレーターのお話をしましたが、今回は、音のお話です。
父の通う病院が、新装開店しました。
病院は新装開店とは言いませんね。
すぐ近くに、新しい建物が立って、そちらがオープンしたのです。と、言っても、もう、随分経つのですが・・・
さて、この病院、さすが新築だけあって、なんでもかんでも最新式です。
玄関には、ペッパー君がいます。
ご存知のように、このペッパー君は人が近づくと、話しかけてきます。
始めは誰かが話しかけてきたのかと思ってびっくりしましたが、すぐに、ああ、このペッパー君だと気づきました。
しかし、ホッとして待合椅子に腰かけていると、近くで、ピピピと、音がします。
結構大きな音です。
何かと思ったら、あなたの番が来ましたよという、呼び出しの音だったのです。
診察を待つ患者さんが、全員この呼び出しの機械を持っているのです。
あちらでピピピ、こちらでピピピと音がします。
そのたびに、患者さんが、あれ?自分のかしら?と機械をのぞき込みます。
自分の機械が鳴った人は、慌ててその音を消して、あわただしく立って、診察室に行ったり、会計に行ったりするのです。
家に帰ってきて、ホッとして、テレビをつけ、お茶でも飲もうとお湯を沸かしていると
どこからともなく、ピピピと、また、あの音がします。
何故家でも?と思って慌てました。ポットのお湯が沸いたというお知らせ音でした。
苦笑いをしながらお茶を入れていると、今度はトゥルルルと電話が鳴ります。
八ヶ岳の我が家には固定電話はありません。なのにどうして、電話の音が…と、思うと、テレビの中で電話が鳴っているのでした。
もう、笑うしかありません。
しかしよく考えると、我が家でも、街中でも、こんな電子音があふれていますね。
響く音というよりは、耳につく音と言ったらいいのでしょうか?
気になる音です。
きっと、この電子音というのは、あまり心地よい音ではなくて、耳障りになる音なのでしょうね。小さい音でも耳に触ります。
こんな風に、音があふれる中で、思ったことがあるのです。
これは、私の誇大妄想かもしれませんが、この電子音にさらされている人は、苛立つことが多いのかもしれないな…と思うのです。
そのイライラが、他の人に向けられることが多くなっているのではないでしょうか?
そんなことはないと思いたいのですが、この電子音、決して心地よい音ではないですものね。
せめて病院では、もう少し自然な音というか、心地よい音が流れるといいのにな〜と思いました。
ただし、2019年3月3日に加筆修正しました。
5月5日の朝日新聞朝刊に「ネット依存は病気だ」という記事が出ていました。
病気?
本当に病気なの?
確かに「ギャンブル依存」とかがありますから、そうなのかもしれません。
昨年末に成立した『統合型リゾート(IR)整備推進法』においても、まだまだ、そのキャンブル依存症に対する懸念から反対が根強くあります。
競馬や競輪、ボートレース、オートレースの公営ギャンブル等、20歳未満は賭けること(馬券を買ったりすること)はできません。
成人年齢が18歳に引き下げられる中でも、ギャンブル依存症への懸念から、まだこの規制はそのままです。
もしゲーム依存症が病気で、社会に悪影響を及ぼすような状況ならば、国は何らかの法的規制を考える必要があるのではないでしょうか。
公営事業ではないというならば、パチンコはいかがでしょうか?
18歳未満は禁止。確か学生も禁止でしたよね。
スマホや、テレビゲーム機の購入年齢を決め、実際にプレイするそのたびごとに、何らかの年齢認証を入れるシステムを組んではいかがでしょうか。
スマホは子どもの安全面から持たせたいということならば、年齢認証によって、ゲームができないようにすることでよいでしょう。
煙草も、色々紆余曲折がありました。自動販売機での年齢認証が進みました。
ですから、できないことではないと思います。
しかし他方で、家庭の中での問題なのではないだろうかということも、頭をかすめます。
しかし、たばこだって、パチンコだって、未成年者、子どもがそれに溺れないようにするのは、家庭の問題だろうと言えば、そうですよね。
しかし、それでは済まないほど、社会に蔓延し、その悪環境から子どもを守るために、新たな法律を作ったとするなら、今、その悪環境がひとつ増えたと考えるべきなのではないでしょうか。
今、再び、家庭の教育力ではいかんともしがたい、新しい誘惑を社会が作り出してしまったということなのでしょう。
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皆さんはいかがですか?
以前この路線バスの運転手さんは、すれ違う同じバス会社の運転手さんに手を挙げて、あいさつをしていました。時々、何か手でサインのようなことをしている運転手さんもいました。
あのサインはどういう意味なんだとろうと、真剣に考えたものでした。
しかし、先日気が付いたのですが、バスの運転手さん、手を上げてあいさつしなくなっていました。
いつからだったのでしょう。そして、なぜなのでしょう?
手を上げると危ないから…といった理由でしょうか?
何か、利用者から、そういった苦情が来たのでしょうか。
しかし、こんなコミュニケーションは大切だと思うのです。
相手に目をやり、相手のことを思う。そんな行動で、しゃきっとすることもあるのではないでしょうか。相手が「変だぞ!?」と気づくこともあると思うのです。
横断歩道で歩行者が待っていたら、車は止まらないと交通違反だということを知っていますか?
そんなわけで、横断歩道で車を止めて、歩行者の人を渡らせてあげる時、その歩行者は、まるで私が止まったことなど、なかったように前を向いたまま、渡っていきます。(ちょっと、見た方がいいよ。あなたのために止まったのではなくて、発車してあなたに突っ込むかもしれないよ。)…まぁそんなことはありませんが、そんな意地悪を思ってしまうほど、見事に無視されてしまいます。
なぜ、目を合わせようとしないのでしょう。
狭い道で車に道を譲れば、手を挙げて、ちょっと頭を下げます。
こんな、無言のコミュニケーションができないから、『イラッ』とするのではないでしょうか?
あおり運転とかは、そんなコミュニケーションができない人間の起こす事件のような気がしてなりません。
人は、車に乗り、ハンドルを握ると、本性が出るとよく言います。
本性が出るのではなくて、自分の力を勘違いしてしまうのではないでしょうか。
ガンダムのモビルスーツのようなものなのではないでしょうか。
と、言ってもガンダムを私はよく知らないのですが、機械に乗り込み、まるで自分の手足のように大きなロボットを操り、敵を倒していくわけですね。
そんな機械に乗り込んで、自分の意にそぐわないものを倒していく。それが、現代社会の自動車のように感じてなりません。
ぜひ、運転をしながら、ちょっと頭を下げたり、手を上げたりするコミュニケーションをしたいものです。
そしてまた、止まってくれた車には、ちょっと頭を下げるといったコミュニケーションもしたいものです。
]]>ただし、2019年2月13日に加筆修正しました。( )内は加筆部分。
日本人の平均寿命は長いですね。本当に長生きです。世界でもトップクラスです。
逆に世界の最下位クラスの平均寿命は50歳ほどです。日本は楽に80歳を越えていますから、30年も余分に生きることになります。
しかし、平均寿命が延びたといっても、延びたのは、年寄りの期間ですね。子どもの時代が延びるようなことはありません。
それどころか、日本の子どもは、成長が速まり、大人の身体になるのが早まっています。すなわち子どもの期間は短くなっているのです。
それにあわせるように、日本社会は成人年齢を18歳に引き下げようとしています。(2022年4月から実際に引き下げられます)
しかしそれと相反するように、学生でいる時間は延びようとしています。高校の授業料無償化が進めば、ほぼ全員が高校へすすむでしょう。そして大学への進学率は50%を越えています。
子どもが減り、大学は何とか定員を充足しようと、あの手この手を考えます。これからも、大学の進学率は上がり続けるでしょう。
すなわち、社会人になる時間は遅くなるというわけです。極端に言えば、子どもでいる時間が長くなるという事です。
でも、社会は18歳を大人とします。
この相反した現象は一体どういうことなのでしょうか?
そして、年寄りになっても働き続けないといけないのです。
働き方改革というのはこのように長く働く時代の働き方を考えるということなのではないでしょうか?
もしかすると、働き方というよりも、生き方改革なのかもしれませんね。
18歳で大人になるなら、それまでに大人としての心も育てないといけません。
子どもたちが子どものままでいたい、学生でいたいと思うような育て方をするなら、成人年齢は下げないほうがいいでしょう。
老いた時、どのように生きるか、どのように死ぬかも選べないといけないのではないでしょうか。
長くなった人生を、いかに生きるかをちゃんと考えて社会を再度組み立てないといけない時代に入っていると思います。
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24年前のこの日、国際自然大学校の理事長の佐藤さんが大阪に出張していて、連絡がつかず、とても気をもんだ思い出があります。
24年後、2019年1月17日の、天声人語です。
この天声人語にもあるように、何か災害があると、多くの人が、特別なことではないという感じで、ボランティアに行くようになったと思います。
『災害ボランティアは特別なことではなくなった』と、あるように、昨年は、災害が特別な出来事ではなく、日常茶飯のように次々に襲ってきました。
そして、そのたびに多くの人たちが、ボランティアとして、現地に駆けつけています。
しかし、この『災害ボランティアが特別なことではなくなった』という一行を読んだときに、私はふと思ったことがあります。
日常の中でのボランティアも特別なことではなくなっているだろうか?
朝の通勤ラッシュンの中で、手すりにすがって、ゆっくりゆっくり階段を上る高齢者を押しのけるように脇をすり抜けざまに、「チッ」と舌打ちしていくような人が増えているように思います。
『あおり運転』などという言葉が、定着してしまう世の中です。
港区青山の児童相談所の建設にまつわる騒動なども、何か殺伐としたものを感じます。
日常の中では、人のために何かするということよりも、「そんなことで?」と思うようなことで、人を傷つけたり、押しのけたりするような事が『特別でないこと』になりつつあるのではないでしょうか?
多くの災害ボランティアの方々は、日常の生活に戻って、どんな暮らしをしているのでしょう。
災害ボランティアが、特別でないことになっていく中で、日常の生活の中でも、隣人を思いやり、手を差し伸べあうような暮らしが特別ではないことになっていってほしいと思うのです。
しかし、どう考えても、東京を中心とする都会は、その逆に走っているように思えてならないのです。
私は、東京での仕事を終え、八ヶ岳に帰ってくると、本当にほっとします。
東京では、知らず知らずのうちに、緊張しているのかもしれせん。周りの人に迷惑をかけないようにしなくてはいけない。周りの人から、何か言われたり、されたりしないだろうか…と。
そんな、緊張をした生活から逃れたくて、災害ボランティアに行く人がいるのではないかしらと思ってしまう時もあります。
お互いをもっともっと思いやれる、そんな人を育てていかなくてはと思います。
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ただし、2019年1月18日に加筆修正しました。
一気に桜が咲きましたね。
しかし正直、「春〜!」という感じになりきれないのは私だけでしょうか?
なにか肌寒かったり、でも、これが春なのかな…。
61回目の春なのに、春がよくわからない、これが春というものなのでしょうか?
八ヶ岳と川崎を行ったり来たりの暮らしは続いています。
八ヶ岳はやっと梅がほころび始めたところです。
めでたく還暦の一年を乗り切り、61歳になりました。
61歳の誕生日は国際自然大学校での会議の日でした。
久方ぶりに、本当に久方ぶりに、国際自然大学校の諸君に祝っていただきました。
何かとっても嬉しかったです。
歳を重ね、重ねて、きっと人生の5分の4ぐらいを過ごしてくると、歳を重ねることの証明である誕生日はあまり嬉しくはないけれど、その誕生日を祝ってもらうことは何歳になっても嬉しいもので、その嬉しさが、この一年の励みなることも間違いのないことなのです。
節目というのは、こんな風に年寄りを励ます意味もあるということを若い方々には知っていただけると嬉しいと思います。
赤いちゃんちゃんこを着ることは拒みました。しかしプロ登山家竹内洋岳君が還暦祝いにと贈ってくれた、腕時計は一年間大切に、そして慈しみながら、腕に巻かせていただきました。
嬉しいプレゼントでした。
そして、そんなものは大切に、大切に使っていかなくてはいけないと思うのです。
竹内君が、店に出ているころ彼のいたICI新宿西口店で選んでいただいた、ハイキングシューズの底がずいぶん減ってしまいました。ICI石井スポーツで底の張替をお願いしました。
はきなれた靴。今どきは、買い替えてしまうのかもしれませんが、底を張り替えれば、まだまだ履けます。
修理をして使い続けられる物が、本当にいい品物なのかもしれないと感じました。
私自身も、修理しながら、使い続けていかないといけませんね。
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ただし、2019年1月13日に加筆修正しました。( )内は、追記部分です。
八ヶ岳の我が家で昨年末に大掃除をしたときのことです。
ふと気が付いたことがあります。こちらの家では、掃除機を全然使っていないのです。
国立赤城青少年交流の家での仕事を終え、前橋の宿舎を引き払ってこちらに来た時に、
当然掃除機は持ってきました。
そう思って、納戸をひっくり返したら、
なんとなく古びた感じの掃除機がちゃんと出てきました。ちゃんと動きました。
でも、結局その掃除機は再び納戸にしまってしまいました。
今朝、掃除をしたとき、そのことを思い出しました。
すっかり私の掃除の手順に掃除機はなくなっています。
ほうきで履いてきて、窓際にまとめ、大ごみを拾った後、掃き出し窓から、ベランダにごみを履き出してしまいます。
課題は、部屋の中が暖かいと、窓を開けたとたん外から風が吹き込んで、ホコリを履きだすのにひと苦労ということです。
しかし、この掃除、結構楽しいのです。
ほうきは2本使います。
階段を掃くときと、部屋や廊下を掃くときのものです。
階段の隅を掃くときは、いろいろ工夫をしています。もちろん掃除機で吸う方が早いのかもしれません。
しかし、その隅のごみを掃き出す、ちょっとしたコツをつかんで掃き出すことができた時は、結構嬉しいものです。
そして、ゴミがまとまってきたとき「こんなにあったのだ」と、感心してしまうと共に変な達成感があります。
そして、電気を使わない省エネ生活だなと、思う充実感も味わっています。
家の作りは、地域の伝統的形です。だからできることかもしれません。
川崎のマンションで、これはとてもできない生活スタイルです。なぜなら、掃き出し窓がないのです。
ベランダへの窓は、床から一段高くなっています。
それよりなにより9階のマンションのベランダにゴミを掃き出せば、ご近所迷惑ですね。
省エネの暮らしができる家づくりや、暮らし方を考える建築家が生まれてきてくれないかなと思いました。
でないと、やはり、省エネの暮らしなんて、絵に描いた餅なのかもしれないなと思いました。
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今回は、人々の声のことを書きたいと思います。
声というより、言葉といった方がいいかもしれません。
ある時、テレビのニュースで、
『フライパンに火をかけました』という、画面の解説がありました。
本当は『フライパンを火にかけました』でしょうね。
また、ある時に、
『サーフィンは自然の中のスポーツなので天候に左右されます。』
『同じ波は一度も来ない。』
これは『同じ波は2度とこない』の間違いではないでしょうか。
現場でのレポートならばいざ知らず、VTRに後付した解説がこのような間違いをするというのは、いかがなものでしょうか。
また、もうひとつ気になることがあります。
バラエティー番組で…ですが、話をしている人の話にかぶせるように、
他の人が話をするところをよく見受けます。
そうなると、何を話しているのかわからなくなってしまいます。
しかし、そんなときは、画面の下にテロップが入り、
何を話しているのか文字で知らせてくれています。
ところが、そんな話し方というか、会話が、ラジオ番組でもされるようになってきています。
他の人の話をよく聞かずに、自分の話したいことをどんどん話していってしまうのですね。
そんなとき、ふと思い出した言葉が『人のあら探しするな』。
あ〜しまった。
そんな人のあらを探す前に、自分のことを反省しないといけませんね。
こんな風に文章を書いて暮らしている自分が、いかに誤字脱字が多いか、もっと恥じなくてはいけません。
また、本当にちゃんと人の話を最後まで聞いているかどうか。
反省しないといけないシーンを、いくつも思い出します。
ちゃんとした受け答えをするには、まず最後まで人の話をちゃんと聞いて、言葉を選んで、正しく表現しないといけませんね。
子どもたちに対しても同じだと思います。
よく、子どもの話をさえぎって『それはね…』と、
先に答えを出していることがあるように思います。
「ねえ、ねえ、このお魚は…」「これは鮭よ」という感じでしょうか。
確かに、子どもはこの魚の名前は何というのかなと思って質問をしているのかもしれません。
しかしもしかすると、「このお魚は、なんていうお魚? どんな形しているの?」と
聞きたかったのかもしれません。
しかし、「鮭よ」と言われてしまえば、「ふ〜ん」で終わってしまうのです。
キャンプを終えて、解散をして、お子さんがご家族のもとに帰ったとき、
「どう、楽しかった?」「具合悪くならなかった?」「喧嘩とかしなかった?」と、
機関銃のように質問を繰り出し、子どもたちは、うん、うんと答えることしかできない風景を見ることがあります。
子どもが話し出すのを待って、話し始めたなら、
ぜひ最後まで話しを聞いてあげてください。
そして、きれいな言葉で、よく選んだ言葉で、感想を言ってあげようではありませんか。
北野天満宮の末社です。全国1万2000もある末社の中のひとつです。
末社といえども、さすがの北野天満宮…か、どうかはわかりませんが、
参道の両側の木々が立派です。
宮司さんもいない、小さなお社ですが、
100メートルちょっとの参道には巨木が並びます。
この小淵沢に、なかなか古くから人々が暮らしていたのだなと感じます。
お社の後ろにも、うっそうとした森があります。
逆に少し悲しいこともありました。
年末、帰宅したときに、我が家の近くの家の前に大きく茂っていた銀杏の木が根元から
切り倒されていました。
何でもかんでも守らなくてはいけない、と言うつもりはありません。
きっと、このお宅の方にとっては、何か不都合なことがあったのでしょう。
沢山の銀杏の実が落ちる木でもありました。家のすぐ前に立つ木でしたから、
匂いがひどくて仕方なかったとか、家が影になってしまうとか、何かわけがあったのでしょう。
とはいえ、残念な気持ちもあるのは事実です。
きっと切るのはほんの数十分でしょうが、
ここまで育つのは、何十年か、百何十年かかったでしょうに。
そして、もう一本、昨年の冬に、強風で裂けてしまった木がありました。
その木を、道すがらいつも見ていたのですが、
この冬とうとう、根元から倒れてしまいました。
自然の摂理で、このように朽ちていく木もあるのですね。
このように、木にもいろいろな生き方、そして樹命の終え方があるのですね。
切られた銀杏の木は、その後どうなったのでしょうか?
私が見た時はこの切り株だけでしたので、その後どうなったのかはわかりません。
チップになってしまったのか、薪になったのか? はたまた、何か家具のようなものに
姿を変えて人々の役に立つのでしょうか?
この風で倒れ朽ちた木は、この後どうなるのでしょうか?
根元から再び芽を吹くのでしょうか?
朽ちて、その朽ちた木が栄養となって、
そこにまた違う草木が芽を吹かせるのでしょうか?
どちらにしても、倒れてなお、人々のためであったり、自然の中の生きる者たちの役に
立っていくのですね。
私たちは、何歳まで、毅然と立ち続けるのでしょう。生き続けるのでしょう。
そして、どのように人生を、寿命を終えるのでしょう。
木々はその姿をもって、私たちに自身の生き方を問いかけているような気がしました。
そして、この木々に代わる木を、どこかで、
どのようにかして育てていかないといけないのだとも思います。
そう。人も同じで、育てていかなくてはいけないのです。
改めまして、本年もよろしくお願い申し上げます。
今回のお話は国際自然大学校の機関誌『OUTFITTER』
雑記帳2018年1月号に掲載した雑記帳の再掲載です。
ただし、2019年1月6日に加筆修正しました。( )内は、追記部分です。
先号で昨年秋に風邪をひいたお話をして、今度は風の話。
決して掛けたわけではありませんが、ちょっとおもしろいですね。
(先号というのは昨年12月8日掲載分のものです。
https://michikusashinagara.blogspot.com/2018/12/blog-post_9.html)
年末からの寒波で、東北をはじめ雪国では例年にない大雪のようで、大変なこ
ととお察し申し上げます。お見舞い申し上げます。
その寒波の影響でしょうか、北風が例年になく強いように感じます。
皆さんは普段の生活の中で、風の強さや、温度、においを感じることはありますか?
風の通り道を見ることがありますか?
八ヶ岳に住むと、風に乗ってくるにおいをいつも感じます。
特に草を焼くにおいは、私の大好きなにおいです。まあ、野外活動をしてきた者の宿命でしょうか、
煙のにおいに安堵を感じてしいます。
風の道を感じました。先日来の強風で、年末に、家の周りの歩くところに
敷き詰めたウッドチップが(写真1)飛ばされ、畑にまで飛んで行ってしまいました。
その畑に、ほうれん草の種をまいて伏せておいた苗ドーム(写真2)が、
どこかに飛んで行ってしまいました。影も形も見当たりません。
もちろん、杭を打ち土もかぶせて飛ばないようにしておいたのに…です。
そのウッドチップが飛んだ先にその苗ドームがあったのです。すなわち風の通り道。
なるほど、ここを風が抜けていくのか…と納得したものでした。
温度を感じるのは、襟元ですね。首が寒い!
今年の風は本当に首元が寒いです。
と、思いながら東京に戻ってみると、コートの前を開けたまま、
襟元が大きく開いた服装で歩く女性の多いこと。
そういえば、ズボンの丈が短くて、足首が出ているファッションも流行っているのでしょうか?
皆さん、風の温度を感じたいのでしょうか?
いやいや、きっと、そんな寒いところには長い時間いない生活なのでしょうね。
ちょっとしか外には出ない。
きっと体の中で『首』の付くところを冷やしてはいけないなんてことは知らないのかもしれませんね。
さて、新年でもあるので今年の抱負を…。
実は昨年、八ヶ岳の編笠山に登り損ねました。
小学生でも登る山なのに、頂上直下で体調を崩し、下山しました。
この秋には、楽々登ってリベンジをしたいと思っています。
(残念ながら、昨年の秋は上ることができませんでした。
なぜかスケジュールが調整できませんでした。少しおびえもあったのかもしれません。
今年こそ、リベンジしなくては。)
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あけましておめでとうございます
皆様、どのようなお正月をお迎えでしょうか?
私は八ヶ岳の我が家で、ゆっくりと迎えている予定です。
ただ、この原稿を書いている2018年12月26日現在は、まだまだ年賀状書きに追われい
ますが…(笑)
さて本年から、この『道草しながら』を、この酒井産業株式会社(以下、酒井産業)さん
のサイトで書かせていただくこととなりました。
酒井産業さんは長野県塩尻市にあります、木曽漆器の老舗の会社であります。
私との出会いは、すでに10年余りになるでしょうか、国際自然大学校のクラフト製品
の制作供給をお願いしたことに始まると記憶しています。
現在の社長でいらっしゃる酒井慶太郎氏には、木育に対して大変ご理解をいただいてお
り、色々なお話をさせていただく中で、ずいぶんとご無理なお願いをしたり、ご協力を
賜ってきました。
そしてこの度、この「道草しながら」を掲載していただいていた東急ケーブルテレビの
WEBサイトのコーナーが、打ち切りになるということで、酒井産業のサイトで書いて
みないかというお話を頂戴しました。
私自身もこの「道草しながら」を書き続けられるところを探しており、本当に感謝して
おります。
そんな経緯で、タイミング的に少し間が空いてしまいましたが、こちらでこれからも書
かせていただけることとなりました。
また、タイトルも今まで通り『道草しながら』で書かせていただきます。
私が、なぜ木育というか、木を使った製品にこだわるかということをここでお話しさせ
ていただきます。
私の経歴をご参照いただければおわかりになるかと思いますが、過去、いくつかの施設
にて所長をさせていただいていたことがあります。
千葉県の大房岬少年自然の家にいる時も、群馬県の国立赤城青少年交流の家にいる時も
、多くの企業が、周辺の山で植林をしてくださっていました。
大変ありがたいことですし、素晴らしいことだと思います。
そして同じように、全国のあらゆるところで、植林の活動が行われています。
多くの企業が植林した森の木々はやがて成長し、間伐の時期を迎えつつあるところも、
少なくないのではないでしょうか。
植林事業は、企業の社員による社会貢献や、地域の方々との協働事業として、確立され
た感があります。
しかし、その成長した木々を間伐し、活用することはまだまだ事業化されてはいないよ
うに思っています。
これは、産業として位置づけられないと、事業化できないのではないかとも考えます。
そこで私は、突飛な妄想とも思えるようなことを考えています。
全国の青少年教育施設が、建設後50年余りを経て老朽化し、建て替えなくてはいけな
い時期に差し掛かっています。
しかし、行政の予算がない中で、廃止や、老朽化したままの危険な状況での運営を余儀
なくされています。
その施設を、この間伐材や、地域の林産材を活用して、子どもたちと一緒に建て替える
といプロジェクトです。
建築基準法、消防法、建築費、等々…それはそれはたくさんのハードルがあることは承
知しているつもりです。
それでも「やってみたい!」
最も大きな、妄想であります。
そして、それぐらい大きなことをして、国産材を使うことを考えないと、林業が仕事と
して再興したり、持続可能な社会になっていくことは難しいのではないでしょうか。
そんな大きなこととは逆に、身近ですぐに実現できそうな妄想も、ふたつあります。
学校の自然教室や、移動教室の2泊3日を丸々かけて、『自分の椅子を作る』ようなプ
ログラムがあってもいいのではないでしょうか?
自然学校の事業で、各家庭オリジナルの『ダイニングテーブルを作る』ようなファミリ
ーキャンプがあっても面白いのではないでしょうか?
そんな風に、木を使うことを身近にしていくことで、国民がもっと木に囲まれた生活を
良しとする価値観を持ってもらうようにしたいと思います。
それは、プラスチック製品を使うよりも、少しだけ、お金のかかる生活になるかもしれ
ません。
しかし、ブランド品を買ったり、使い捨ての暮らしを見直せば、それほど高価なもので
はないと思います。
私が今原稿を書いているこの机は、結婚の時に手に入れ、八ヶ岳に引っ越すときに酒井
産業さんにお願いして、修理し、拭き漆をかけていただきました。
このように、修理をしたりして、大切に使い続けるのです。その間に、その木を切り出
した山にまた木が育つ。まさに持続可能な社会になるのではないでしょうか。
その思いに共鳴してくださった、酒井産業さんとは、これからも、よいビジネスパート
ナーとしてお付き合いさせていただきたいと思っています。
今まで通り、月4回のコラムをここで書かせていただきます。
1,8,15,22日の更新です。
コメントなども、ぜひ遠慮なくお寄せください。
また、バックナンバーをご覧になる場合は、こちらへ。
https://michikusashinagara.blogspot.com/
それ以前の分に関しましては、こちらになります。
http://www.itscom.net/contents/maegumi/contents/sakurai/
ただし、こちらに関しましては、東急ケーブルテレビさんが閉鎖するまでとなります。
いつ閉鎖するかは、現在のところ未定です。
それでは皆さん、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。